日本人のこころと身体の疲れを癒しといえば「風呂」ではないだろうか。そして、その癒しを都市部において大衆に提供してきたのが公衆浴場、所謂「銭湯」である。日本人と「風呂」のつながりには歴史があるように感じるが、現在のように湯に浸かる「銭湯」が登場するのは、意外にも歴史が浅く江戸の慶長年間(1600年頃)である。
神奈川県内においては、戦後、京浜臨海部を中心に急速な経済発展を遂げる昭和30年代から昭和40年代前半にピークを迎え、神奈川県内には約800軒、横浜市内だけでも約340軒の銭湯があり、日々多くの人に利用されていた。しかし、日本人のライフスタイルの変化とともに、家庭風呂(内風呂)が普及すると、銭湯は次第に減少し、平成末期には、神奈川県内で140軒、横浜市内に限ると70軒を割り込んでいる。
銭湯の減少は、一つ一つの銭湯が歩んできた銭湯の歴史の喪失を意味する。このまま銭湯の減少が続けば、市民生活に密接にかかわっていた銭湯の存在が忘れ去られる可能性がある。それは、銭湯を介してつながっていたコミュニティの喪失にも行き着くのではないか。
銭湯の建築様式に着目すると、関東の銭湯には建物入口に「唐破風」もしくは「破風」が正面につく所謂「寺社造り」と呼ばれる建築様式を多く見ることができる。ボイラーにつながる煙突とともに、地域のランドマークとなっているゆえんであろう。また、浴室内においては、富士山のペンキ絵に代表される壁画なども意匠上の特徴といえる。
横浜開港、京浜臨海部での集団就職や出稼ぎ労働者などの労働者集積、箱根、湯河、綱島における温泉文化など、都市発展史との関係も不可分であり、なにより時代時代の公衆衛生を支えてきた施設としても、地域ごとの歴史を生かしたまちづくりにかかすことのできない存在であるといえる。
そこで、HERITAGE TIMES YOKOHAMA KANAGAWAでは、街の中のユニークな存在である、これら銭湯の魅力を伝えるため、銭湯の営業そのものを「歴史を生かしたまちづくり」ととらえ、シリーズ「歴湯」をスタートさせる。 是非、記事を参考に、歴史的建造物めぐりと合わせて銭湯も楽しんでいただきたい。
Comments