
令和3(2021)年4月1日、横浜電気鉄道株式会社が運営していた路面電車を市電として公営化するため、横浜市電気局(現:横浜市交通局)が発足がしてから100周年を迎えた。
横浜市交通局では100周年を記念して、記念乗車券の発行やSNSでの発信などを行っているが、市電保存館では「横浜市営交通100周年記念花電車」を展示している。
これは、昭和47(1972) 年3月、横浜市電が全線廃止となった際に運行された「さよなら市電花電車」を再現したもので、ベースとなっている無蓋貨車も、当時実際にベース車として使用した無蓋貨車である。今回は新たに、その花電車に「ありがとう100周年」バージョンとして装飾。合わせて近隣小学校の児童が作成した「未来の市営交通」に向けたメッセージが添えられている。

元々、市民の足とであり客車ばかりであった市電に貨車が導入されてのは、市営化以前の横浜電鉄社営時代に中区山下町西の橋から隧道を掘って山を越え、本牧原へ路線を延ばすにあたり、北方町にあったキリンビール山手工場の製品輸送を担うこととなったことが発端とされる。
千代崎町停留所付近からビール工場構内までの貨物専用線を約120m敷き、西の橋脇の船着場に併設した貨物駅まで輸送を始めたのが大正2(1913)年である。当初は有蓋貨車2輌であったが、その後、無蓋貨車を4輌追加し、最盛期には6両を当てるほどの活況となった。
しかし大正14(1923)年の関東大震災により煉瓦造の工場・事務所は火災により焼失し、ビール工場は生麦に生産拠点を移すこととなった。
このことによって、ビール輸送の目的は無くなったものの、一転して震災復興にはなくてはならない存在となった。大正14(1925)年には無蓋貨車7両を製造し、震災による被災を免れた7両と合わせて14両の無蓋貨車がフル稼働した。その後はトラックも普及し、貨車の出番が徐々に少なくなってきたが、第二次世界大戦で痛んだ市電軌道を修理するために再び活躍することとなった。昭和23(1948)年10月、300型の改造車として有蓋貨車21〜23、無蓋貨車8〜10が横浜車輌で製造された。
この無蓋貨車10号は、その車輌の一つで、大正時代の姿を残した車体には、中央ポール柱を兼ねたクレーンが備えられているのが特徴となっている。クレーンには2トンの手動チェーンブロックを装備しており、レール、枕木、バラスト、石炭輸送等に使われていた。そしてもう一つの活躍の場が花電車のベースであったのである。

花電車は、国家的な慶祝の日や、復興、博覧会、開通記念などに運行され、多くの市民の目を楽しませてきたが、昭和33(1958)年の「横浜開港100 年祭」を運行がなくなり、次に市民の前に姿を見せたのが、ここで再現されている「さよなら市電花電車」であった。
今回は、「さよなら」ではなく、100周年のお祝いの場面での登場となった。
花電車の展示の脇には「100周年に、感謝を込めて。」と題されたパネルも展示されており、「これからも、安全・安心と、皆さまの笑顔を乗せて、横浜の街とともに走り続けることを、お約束します。」「横浜の街とともに、これまでも、これからも」と締め括られている。街を見守り、ともに発展していく市営交通の歴史を学びに、そして体験し、楽しみに、市電保存館に来館していただきたい。

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