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[コラム]関東大震災100年 | 06 - 震災復興建造物 - 三代目井上良斎登窯 - ぼうさいこくたい2023連携企画【THE HERITAGE TIMES YOKOHAMA KANAGAWA

更新日:2023年8月26日



多くの人には横浜と「焼き物」という言葉は、結び付かないかもしれないが、明治から昭和初期にかけ、横浜から欧米に向けて多数の焼き物が輸出されていた。特に初代宮川香山(以降「香山」という)の「眞葛焼」は人気を博し、横浜港に入ってきた外国人達は、先ず人力車で「眞葛焼」の窯に向かったそうである。 そんな香山と同時期に横浜で作陶を行ったのが、三代目井上良斎(以降「良斎」という)である。良斎は明治38(1905)年、「珍果文花瓶」(国指定重要文化財)の作者としても知られる板谷波山に師事し、作陶活動を開始する。当初は東京浅草にて作陶を行っていたが、大正3(1914)年から輸出に便利な横浜(現在の高島町付近)に窯を移し、「真葛焼」同様に海外へ輸出用の作品を作っていた。



作風は線刻の技法を得意とし、浮彫や掻き落としにて模様を彫り込む作品を多く作っている。良斎の焼き物は「神奈川焼」とも呼ばれ親しまれた。作品の一部は神奈川県庁舎内にも展示されている。関東大震災で被災すると、大正13(1924)年に南区永田東の斜面地に拠点を移し、斜面を利用して耐火煉瓦を積んだ登り窯を設け、戦後に至るまで作陶活動を続けている。この地が選ばれたのは登り窯を造るのに適した斜面地であったこと、大岡川を使って横浜港まで作品を輸送するのに便利であったこと等が関係しているそうである。南区には現在も当時の登り窯と工房が残る。



良斎の登り窯は、耐火煉瓦造で長さ7.6m、幅3.8m、高さ5.1mの規模を有している。3つの焼成室が設けられ、戦前は欧米向けに大量の作品を焼いていた。焼成室内には焼成の際に窯にくべた松から出た松脂も見られる。戦後は輸出ができなくなったこと、また、燃料となる松が手に入りにくくなったこともあり、登り窯は使用されなくなった。現在「登り窯と永田の自然を守る会」を中心に、登り釜を後世に伝える活動が展開されており、イベント等に合わせた見学も行なっている。また、敷地内には湧水があり、平成19(2007)年には横浜市の横浜市民まち普請事業に採択され、水路や池を整備、ホタルの成育も行なっている。

戦前は区内にも多くの釜が設けられていたが、市内を含め現存するのは良斎の登り釜のみである。登り釜の存在は、横浜の産業史、文化史上も貴重な存在であるし、震災復興、戦災を乗り越え、海外との窓口として発展してきた横浜の歴史を伝える生き証人でもある。




【参考文献】  ・『井上良斎の登り窯』 登り窯と永田の自然を守る会



この特集については、9/17-18横浜国立大学を会場に開催される「ぼうさいこくたい2023」にポスター出展する予定。(コラムタイトルは仮題)






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