[カレンダー]J・H・モーガンと横浜・神奈川【6/6】
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- 6月6日
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J.H.モーガンは、大正9(1920)年2月、51歳の時来日し、東京・丸ビル、日本郵船ビルなどの建設にたずさわった。大正11(1922)年に独立し、全国で30以上手の建築物を手掛けたが、そのうちの半分は横浜に建てられているため「横浜最後の居留地建築家」とも言われている。6月6日はモーガンの命日であることから、彼の横浜・神奈川における功績と関連する遺構を紹介する。
建築家J.H.モーガン
J・H・モーガン(Jay Hill Morgan)は、アメリカ・ニューヨーク州バッファロー出身の建築家。大正9(1920)年に日本フラー建築会社の設計技師長として来日し、丸ノ内ビルディングや郵船ビルディングなど、日本の建設業近代化の礎となる大規模ビルディングの建設に参画。米国の先進的な施工技術を日本へ伝える大きな役割を果たした。
大正11(1922)年に日本フラー建築会社退社。郵船ビルディングに設計事務所を開設。その後、大正15(1926)年には露亜銀行横浜支店内に、昭和3(1928)年にはユニオン・ビルディング内(横浜山下町75・平成13年解体)に事務所を移転させながら、昭和12(1937)年6月6日、横浜一般病院にて急逝気管支肺炎で亡くなるまで、横浜を中心に旺盛な建築活動を続けた。63歳で亡くなったモーガンは山手外国人墓地に眠っている。
ヨコハマ・カントリー・アンド・アスレチック・クラブ(YC&AC)
明治元(1868)年、貿易商のスコットランド人J.P.モリソン(James Pender Mollison)が中心となり、イギリス海軍と地元の商人からなる会員制のクリケットのチームである横浜クリケット・クラブを(YCC)創設。明治3(1870)年にクラブハウスが新設された横浜公園で活動し、明治17(1884)年、横浜アマチュア・アスレチック・アソシエイション、横浜ベースボール・クラブ、横浜フットボール・クラブ、横浜クリケットクラブが統合して、横浜クリケット・アンド・アスレチック・クラブ(YC&AC)となる。
明治45 (1912)年、矢口台(現在のYC&ACの所在地)に新たな敷地を取得とともに、横浜カントリー・アンド・アスレチック・クラブ(YC&AC)として再結成。クラブの初代会長には日本の競馬界の中心人物であり、明治42(1909)年の横浜公園の土地賃貸危機の後、クラブの救助を主導したシグマンド・アイザック(Sigmund S. Isaacs)が就任した。最初のクラブハウス棟と新しいグランドは、大正3(1914)年6月6日に正式にオープンした。
しかし大正12(1923)年9月1日の関東大震災により初代のクラブハウス棟は倒壊。倒壊したクラブハウス棟に変わる2代目のクラブハウス棟の設計を託されたのがモーガンであった。2代目のクラブハウス棟は大正14(1925)年4月25日にオープンした。
しかし、この2代目のクラブハウス棟は昭和20(1945)年5月29日の連合軍の空襲(横浜大空襲)により破壊された。
現在のYC&ACのクラブハウス棟は戦後、木造平屋の3代目を経て、昭和37(1962)年以降に再建された4代目のクラブハウスであり、モーガン設計の痕跡を見つけることはできない。

旧露亜銀行横浜支店
旧露亜銀行横浜支店は、フランス資本の北方銀行とロシア資本の露清銀行の合併によって設立された露亜銀行(1910 - 1926)の横浜支店として建てられた。竣工は関東大震災前の大正10(1921)年。設計はイギリス人建築家バーナード・M・ウォード。銀行建築らしい威厳のある古典主義的建物で、入口や窓の三角ペディメント(破風)、イオニア式の大オーダー(円柱)、半円アーチ窓のキーストーンなどは大きく豪華に造られるなどバロック的な装飾が施されている。関東大震災で壊滅した横浜市街地に残る貴重な遺構であり、鉄筋コンクリート造による古典主義的建築の最初期の事例としても貴重とされる。
大正15(1926)年に露亜銀行横浜支店が閉鎖された後、モーガンは東京から事務所をここに移し、昭和3(1928)年にユニオンビルに事務所を移すまで、横浜での最初の拠点とした。
その後、本建築は戦火を乗り越えながら、ドイツ領事館、アメリカ銀行、横浜入国管理事務所、警友病院別館として使用されてきた。
平成8(1996)年の警友病院移転後は神奈川県が所有し長らく空家であったが、横浜山下町地区第一種市街地再開発事業の中で、結婚式場として保存・活用されることとなり、創建当時の外観、内部意匠を残し、耐震工事や外壁修復などのリノベーションを経て、平成23(2011)年に「la banque du LoA(ラ・バンク・ド・ロア)」として生まれ変わった。平成18(2006)年には横浜市指定有形文化財に指定、平成25(2013)年、「第6回横浜・人・まち・デザイン賞」を受賞している。

山手111番館(ラフィン邸)
山手111番館は、港の見える丘公園内、横浜市イギリス館の南側にあるスパニッシュスタイルの洋館である。ワシン坂通りに面した広い芝生を前庭とし、港の見える丘公園のローズガーデンを見下ろす建物は、大正15(1926)年にアメリカ人ラフィン氏の住宅としてモーガンの設計により建設された。 ベーリック・ホールと同様、玄関前の3連アーチが同じ意匠であるが、山手111番館は天井がなくパーゴラになっているため、異なる印象を与える。赤い瓦屋根に白壁の建物は、地階がコンクリート、地上が木造2階建ての寄棟造り。 創建当時は、地階部分にガレージや使用人部屋、1階に吹き抜けのホール、厨房、食堂と居室、2階は海を見晴らす寝室と回廊、スリーピングポーチを配していた。
平成8(1996)年、横浜市が敷地を取得し、建物の寄贈を受けて保存、改修工事を行い、平成11(1999)年、横浜市有形文化財に指定され、一般公開している。館内は昭和初期の洋館を体験できるよう家具などを配置し、設計者モーガンに関する展示等も行っている。現在、ローズガーデンから入る地階部分は、喫茶室として利用されている。

関東学院中等部旧本館
関東学院大学は、明治17(1884)年に横浜山手に創設された横浜バプテスト神学校を源流にもつ総合大学。大正8(1919)年に横浜市南区三春台に中学関東学院を設立したが初代の校舎は大正12(1923)年9月1日の関東大震災により倒壊。これに変わる2代目の関東学院中学部本館が昭和4(1929)年にとしてモーガンの設計により建てられた。
玄関部分の礼拝堂塔は、中世英国のノルマン様式を模しており、鉄筋コンクリート造の地下1階・地上4階建てで、塔部分が4階建て、教室部分が2階建てであった。横浜大空襲にも耐え、多くの生徒の学び舎となった。 昭和33(1958)年に教室部分を3階建に増築された。
平成4(1992)年に横浜市認定歴史的建造物となり、平成21(2009)年まで使用されていたが、別の校舎が完成し閉鎖された。改修保存のために耐震診断をしたところ、老朽化が著しいことが判明し、惜しまれつつ平成28(2016)年3月に解体された。新築する校舎に外観を復元する計画があり、歴史的建造物の認定は解除せれていない。平成28(2016)年1月23日と24日には「お別れ会」が開かれ、卒業生や市民など約700名が参加した。

旧根岸競馬場一等馬見所
慶応2年(1866)年に日本初となる常設の洋式競馬場として開設された根岸競馬場の観覧スタンド。明治22(1889)年から使用された初代のメインスタンドは、明治44(1911)年に焼失。その後大きく修復され木造3階建のスタンドに代わったが、大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災で半壊。翌年春から仮設のバラック小屋で競馬開催を再開したものの、新たなスタンドの建設が急務となった。
新スタンドの建設にあたり、根岸競馬場長、シグマンド・アイザックスは、モーガンに新スタンドの設計を依頼。アイザックスはモーガンに対して、新スタンドは耐震性をもち、格調高い仕様で、コース全体を見渡せること、という条件を出した。モーガンは屋根に重量をかけない構造で、建物内部の支柱を減らすことで観覧席からコースを見渡せる新スタンドを提案し、アイザックスの要望に応えた。昭和4(1929)年5月19日に鉄骨鉄筋コンクリート製のスタンド建設に着手、11月に竣工した。昭和9(1934)年には、激増する入場者に対応するため二等馬見所が増築された。

スタンドは鉄骨鉄筋コンクリート造地上7階・地下1階建て、延べ面積約7,700㎡、観覧席4,500席のほか、当時としては珍しいエレベーターを3基、貴賓室、委員室、食堂、騎手室、ラウンジ、休憩室、事務室などを備えていた。馬券の発売窓口は一等・二等ともに70窓、払戻窓口は一等28窓・二等35窓を配置した。最上階の貴賓室を設置、室内はゆったりとした和洋風で、高い格子天井には一つ一つに格調高い鳳凰が描かれた。
第二次対戦後はアメリカ第8軍の管理下に置かれ、馬見所は印刷所や事務所にとして使用され、コースはゴルフ場に転用された。接収解除後は横浜市によって公園として整備され、昭和52(1977)年に根岸森林公園となる。昭和57(1982)年には旧馬見所も接収解除となるが、昭和63(1988)年に二等馬見所と下見所は解体された。令和7(2025)年1月、一等馬見所が横浜市認定歴史建造物に認定され、保存活用に向けた取組が進められている。

ベーリック・ホール(旧ベリック邸)
ベーリック・ホールは、イギリス人貿易商B.R.ベリック氏の邸宅として、モーガンによって設計され昭和5(1930)年に建設された。第二次世界大戦前まで住宅として使用された後、昭和31(1956)年に遺族より宗教法人カトリック・マリア会に寄贈された。その後、平成12(2000)年まで、セント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎等として使用されていた。
現存する戦前の山手外国人住宅の中では最大規模の建物で、約600坪の敷地に建つべーリック・ホールは、スパニッシュスタイルを基調とし、外観は玄関の3連アーチや、クワットレフォイルと呼ばれる小窓、瓦屋根をもつ煙突など、多彩な装飾が施されている。
内部も、広いリビングルームやパームルーム、アルコーブや化粧梁組天井が特徴のダイニングルーム、白と黒のタイル張りの床、玄関や階段のアイアンワーク、また子息の部屋の壁はフレスコ技法を用いて復原されていることなど、建築学的にも価値のある建物である。
平成13(2001)年に横浜市は、建物の所在する用地を元町公園の拡張区域として買収するとともに、建物については宗教法人カトリック・マリア会から寄贈を受けた。復原・改修等の工事を経て、平成14(2002)年から、建物と庭園を一般公開している。

横浜山手聖公会聖堂
横浜山手聖公会は、横浜市中区山手町に位置する日本聖公会の教会であり、開港以来、多くの外国人が居住した横浜山手地区において、キリスト教信仰の中心として発展してきた。
横浜山手聖公会の起源は、文久3(1863)年に横浜居留地105番地(現在の中区山下町)に設立された「クライストチャーチ」にさかのぼる。これは、横浜が開港し、多くの外国人が定住する中で、英国国教会(イングランド国教会)の信徒が礼拝を行うために設けられた教会である。当初の建物は、木造の簡素なものであった。
明治34(1901)年、信徒数の増加に伴い、より多くの信徒を収容できるよう、現在地である山手町235番地に移転した。この際、ジョサイア・コンドルの設計によるヴィクトリアン・ゴシック様式のレンガ造りの聖堂が建てられたが、大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災により倒壊する。
関東大震災後の復興に際し、新たな聖堂の設計を担当したのがモーガンである。昭和6(1931)年に竣工した新たな聖堂は、鉄筋コンクリート造の1階(一部2階)、地下1階建て。外観はノルマン様式を基調とし、正面には特徴的な角柱塔があり、アーチ型の開口部を多用、外壁には火災に強い大谷石が用いられた。
新たな聖堂は、昭和20(1945)年の横浜大空襲により内部を焼失するが、。昭和22(1947)年には信徒たちの努力により修復され、戦後の混乱期における信仰の拠点として復活を遂げる。さらに、平成17(2005)年には火災で再び損傷を受けたが、再び修復が行われ、現在もその姿をとどめている。

旧モーガン邸
旧モーガン邸は藤沢市大鋸に昭和6(1931)年、モーガンの自邸としてモーガン自身の設計により建設された。スパニッシュスタイルの要素を取り入れた外観に和洋折衷の室内を持つこの家は、建築家の自邸としてだけでなく、湘南地域に分布する昭和初期の別荘や邸宅の中にあって住宅史的にも文化史的にも価値のある建物と評価されていた。
モーガン亡き後何人かの手に渡ったが、最後の所有者が負債を抱えたため、株式会社整理回収機構の管理下で債権処理の対象になっていた。
平成11(1999)年「旧モーガン邸を守る会」が結成されるなど、本格的な保存運動が始まり、平成17(2005)年8月には、藤沢市と公益財団法人日本ナショナルトラストによって取得され、復原改修後一般公開されることとなった。
しかし、平成19(2007)年5月、平成20(2008)年1月と二度の不審火による火災に遭い、玄関や暖炉、床、地下室などを除き大部分を焼失する。
令和3(2021)年3月、旧モーガン邸は日本ナショナルトラストから公益社団法人横浜歴史資産調査会に譲渡され、再建をめざして寄付の募集など新たな取組みがスタートした。
現在、ボランティア活動による維持管理、毎月の庭園清掃と公開を行なっている。

ホテル・ニュー・グランド(増築工事)
関東大震災ではグランド・ホテルやオリエンタル・ホテルといった横浜を代表するホテルが倒壊してした。横浜市長の有吉忠一は震災で離れた外国人を横浜に招致するための復興建築として、横浜を代表するホテルの建設を決定した。それを受け、昭和2(1927)年に銀座和光などを設計した渡辺仁の設計によって建設されたのがホテル・ニューグランドである。その後、昭和8(1933)年に屋上階の設計がモーガンに依頼され、増築された。
マッカーサー元帥やチャーリー・チャップリン、ベーブ・ルースをはじめ、多くの著名人が宿泊したことでも知られる横浜を代表するクラシックホテルで、平成4(1992)年には横浜市認定歴史的建造物となり、また平成19(2007)年には、経済産業省の近代化産業遺産に選定されている。

横浜山手外国人墓地(墓所)
モーガンは昭和12(1937)年6月6日、自ら設計した横浜一般病院にて急逝気管支肺炎で亡くなった。63歳で亡くなったモーガンは山手外国人墓地に眠っている。山手外国人墓地の正門もまた、モーガンが建築に関わったとされている。

今回、紹介したのは、モーガンの功績に関する遺構のごく一部に過ぎないが、それだけでも見て回るには十分に数であった。
開港を機に、近代化の道を辿って行った横浜・神奈川。今後も、その近代化を支えた「お雇い外国人」たちの足跡についても、生年や没年からの周年などの機会を捉えて訪ねていきたい。
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