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[レポート]第22回灯台フォーラム【THE HERITAGE TIMES YOKOHAMA KANAGAWA】


時代を照らした「人と灯台」の記憶、6年ぶりの対面開催で紡がれた証言


令和8(2026)年7月4日、横浜市中区の波止場会館において「第22回灯台フォーラム」が開催された。新型コロナウイルス禍などを経て、対面式会場での開催は実に7年ぶりとなった今回のフォーラムは、会場がほぼ満席となる盛況ぶりを見せた。

今回のメインテーマは「灯台がひとりぼっちになった日…」。かつて灯台守(とうだいもり)と呼ばれる職員とその家族が現地に住み込みで管理していた時代から、現代のように自動化・遠隔管理へと移行していった「集約化・無人化」の転換期に焦点を当てた。フォーラムは、代表の不動まゆう氏の挨拶で幕を開け、戦後の灯台の変革期を支えた海上保安庁の元技術官僚と、親子2代で灯台守を務めた当事者による貴重な証言、そして灯台のレンズ研究に関するミニ講座の3部構成で進められた。


黎明期から戦後へ:灯台が無人化に至る歴史的経緯


基調講演に先立ち、灯台フォーラム代表の不動まゆう氏から、日本の灯台が歩んできた近代化と集約化の歴史について、事前に森氏から聞き取った内容の解説があった。

日本の灯台が無人化を完了したのは、今から20年前の平成18(2006)年のことである。長崎県五島列島のさらに先に位置する男女群島の「女島(めしま)灯台」が最後の有人灯台であり、この灯台の無人化をもって、日本から「灯台守」という職名はその役割を終えた。

日本の灯台史を遡ると、江戸時代には北前船などの航路を照らす「灯明台(とうみょうだい)」や、神社仏閣の灯籠がその役割を果たしていた。明治期に入ると政府は「お雇い外国人」を招聘し、洋式灯台の建設技術とともに灯台守の育成を開始した。灯台守は国家公務員の技術職であり、エリート集団であったが、その勤務地はインフラも整わない岬の先端や孤島など過酷な環境であり、また戦時中には攻撃対象となって多くの犠牲者も出した。

戦後、昭和23(1948)年に海上保安庁が発足すると、戦争で破壊された灯台の復旧や港湾整備に伴い、航路標識の数は急増した。昭和32(1957)年には、防波堤灯台なども含めその数は766基(霧信号所や灯浮標なども含めると2,003基)に達した。毎年数十基ずつ新設される中で深刻化したのが、保守要員の確保と、過酷な環境に置かれた灯台守とその家族の生活環境の改善という人道的な課題であった。これが、戦後の「集約管理」への舵切りの契機となった。

それまでは各灯台に設置された「官舎」に数家族が住み込んで管理していたが、海上保安庁はこれを「航路標識事務所」へと改編し、大規模で生活環境が良い灯台に人員を集約。その他の灯台は周辺から車や船で定期的に見回る「巡回管理」へと移行していった。


技術の革新が救った家族の生活:森勝三氏インタビュー


続いて、昭和40(1965)年に海上保安庁に入庁し、北海道などで灯台の集約化・自動化の最前線に立った森勝三氏が登壇し、不動氏によるインタビュー形式での講演が行われた。森氏は自動制御の専門知識を活かし、長年この業務に邁進してきた人物である。


森勝三氏と不動まゆう氏
森勝三氏と不動まゆう氏
光と動力の自動化技術

不動氏からの「光を自動化するためにどのような技術が必要だったのか」という問いに対し、森氏は最優先課題が「日没に点灯し、日の出とともに消灯する自動点滅装置の導入」と、当時主流だった「ガス灯の廃止」であったと語った。電化にあたっては、過酷な海洋環境でも長寿命を保つ「低放電型バッテリー」の開発が必要不可欠であった。さらに当時から、太陽電池や風力発電等の自然エネルギーが導入された。さらにはプルトニウムの導入にも挑戦し、名古屋の防波堤灯台への設置が検討されたものの、国内の感情的ハードルから実現に至らなかったという。

現在も主流である太陽光発電について、森氏は「当初はパネルを水平に設置していたため、海鳥の糞などで汚れて清掃が大変だった。しかし、ブイ(浮標)は常に揺れているため、パネルを縦向きに設置しても十分に太陽光を吸収できることが分かり、設置方法を変えたことでメンテナンスの手間が劇的に減少した」という貴重な開発秘話を明かした。


霧信号の廃止と気象観測の移管

また、視界不良時に音で位置を知らせる「霧信号(無敵)」の自動化について、森氏は「霧信号は非常に大きなエネルギーを消費する上、近隣住民から『うるさい』との苦情が出ることもあった。同時期に船舶側のレーダーや、後のGPSの発達により、霧信号そのものの必要性が低下したため、徐々に廃止していくことが自動化・無人化への大きな後押しとなった」と説明した。

最後まで有人管理の理由となっていた「気象観測業務」については、もともと気象庁からの委託で行われていたが、気象庁側で無人気象観測装置の整備が進んだことで、ようやく灯台から人を引き揚げることが可能になったという時代背景が語られた。


保存か撤去か:集約化の裏で進められた官舎の行く末と地域の絆

無人化・集約化に伴い空き家となった全国の木造のものは放置による荒廃を防ぐため撤去、頑丈な石造りや煉瓦造りの官舎は灯台博物館といった利活用施設への転換が進められた。

さらに、各地の拠点に大規模な「航路標識事務所」を新設して複数の灯台守家族を移住させる集約業務においては、地元の自治体や事業者との土地取得交渉や宿舎建設など、地域社会との密接な連携が不可欠であった。北海道の第一管区海上保安本部工務課長(小樽)時代、焼尻島と留萌を集約化する際には、当時焼尻島の所長だった大谷雅彦氏の父親・治ニ氏に地元調整などで大いにお世話になった。過酷な離島から都市部への集約を成し遂げたエピソードは、僻地に取り残されていた灯台守家族の生活環境を劇的に改善し、当事者からも深く感謝される象徴的な変革の記録として語られた。


会場との質疑応答

参加者からの質問:「集約管理を進めるにあたり、イギリスのトリニティ・ハウス(航路標識管理機関)など、海外の事例を参考にしたテンプレートはあったのか。」


森氏の回答:「海外の事例をそのまま模したわけではないが、小笠原諸島が日本に返還された際、現地(父島)の灯台を米軍がどのように管理しているのか視察に赴いた。米軍は大容量の乾電池を使用して灯台を点灯させており、これに大変触発された。帰国後、日本の電機メーカーに声をかけ、アメリカの技術を参考に『空気電池』を共同開発してもらった。この技術革新が職員の負担軽減に最も寄与した。」


孤高の岬に生きた人々の日常:大谷雅彦氏講演


「灯台守の生活と集約管理・その後」と題して、親子2代で灯台守を務めた大谷雅彦氏が登壇した。大谷氏は北海道の白神岬灯台の官舎で生まれ、高校卒業後、海上保安学校灯台課程入学、海上保安庁の交通部や日本航路標識協会を経て、現在は民間企業で航路標識に関わり続けている。


大谷雅彦氏
大谷雅彦氏
技術の進歩と効率化の波:GPS時代の到来と『事業仕分け』がもたらした航路標識の削減

日本の近代的な大型灯台は明治期から昭和初期にかけて数を増やし、昭和中期以降は従来の単独管理から「航路標識事務所」による集約化や定期的な巡回・滞在管理へと移行した。航路標識の総数は平成14(2002)年に5,604基でピークを迎えたが、その後は目的消滅や機能重複を理由に削減が進められた。特に決定打となったのが、平成22(2010)年前後に国が実施した「事業仕分け」である。当時、「すでにGPS(人工衛星による測位システム)が普及している時代において、多大な維持費がかかる灯台は不要ではないか」という厳しい追及を受け、約400基もの灯台が削減ターゲットとされた。これに対し、海上保安庁交通部は船舶関係者など実際に航路標識を利用する人々の理解や合意形成を丁寧に求めながら調整を進めた。最終的には約200基の削減に留まったものの、この事業仕分けは、船舶の近代化に伴い灯台がその絶対的な役割を見直され、大規模な組織・設備の再編へと向かう象徴的な転換点となった。


僻地での過酷な「食住一体」の暮らし

大谷氏は、父親であるハルジ氏が勤務した襟裳岬灯台での幼少期の記憶をベースに、当時の灯台守の壮絶な生活環境を振り返った。 灯台守の生活は、岬の先端や離島という「僻地」での24時間勤務であり、当時はインフラも病院もなく、学校も遥か遠方にあった。水道がないため、生活水は井戸やコンクリートの建物の屋根に降った雨水を樋で集め、地下のタンクに貯めたものを使用していた。

また、昭和31(1956)年から昭和52(1977)年まで運航されていた海上保安庁の補給船「若草」は、僻地に暮らす家族から「海のサンタクロース」と呼ばれていた。燃料や電球などの消耗品の補給だけでなく、家族の健康診断や、子供へのおもちゃのプレゼントも積載していた。しかし、大波に揺れる補給船から搭載艇へと一人ずつ飛び移る経験は、子供心に非常に恐ろしいものであったという。


観光地ならではの苦悩と通学の記憶

襟裳岬は当時から観光地であったため、灯台守の家族は特有の「公害」にも悩まされた。観光客が捨てるゴミの清掃は灯台守の仕事であり、官舎の前に積んであった冬用の薪をキャンプ客に盗まれる「薪泥棒」や、宿舎の中を覗き込まれるプライバシーの欠如が日常茶飯事であった。さらに、岬特有の事案として、自殺者があったとき際の警察への通報や立ち合い業務も、地元の駐在所が遠いことから灯台守が対応せざるを得なかった。

小学校への通学も過酷を極めた。強風が吹き荒れる襟裳岬では、風で飛ばされた小石が顔に当たり、泣きながら山道を歩いた。途中で放牧されている羊(綿羊)に追いかけられる恐怖は、今でもトラウマとして残っていると語った。


孤高の労苦をねぎらう:灯台守の誇りとなった皇室との深いご縁と拝謁の歴史

僻地の過酷な環境で海の安全を守り続けた灯台守の生活は、古くから皇室との深い結びつきを持っていた。昭和26(1951)年から平成14(2002)年までの長きにわたり、毎年「灯台記念日」に30年以上勤務したベテラン職員とその配偶者が毎年10組ほど東京へ招かれ、天皇皇后両陛下に拝謁が続けられた。大谷雅彦氏が海上保安庁の本庁(交通部)に勤務していた平成16(2004)年には、皇室のご公務見直しや「過酷な灯台守の生活」そのものが無人化によって終焉を迎えつつある時代の変化に伴い、拝謁という形から、両陛下とお茶を共にされる「お茶会」へと形を変えて最後の集大成が行われた。この際、大谷氏は全国から集まった約70名の元灯台守とその家族の人選・案内・世話役という大役を務めた。また皇室からの御下賜金を原資として、灯台守の福利厚生や保守活動を支える公益社団法人「燈光会」が設立され、現代における全国16箇所の「のぼれる灯台」の参観業務へとその歴史と精神が引き継がれている。


灯台守に求められた多才な能力

大谷氏は、灯台守に求められた能力の多様性についても言及した。 本職である機械・電気・燃料の知識に加え、灯体を守るための「塗装技術」、官舎の手入れを行う「大工・土木技術」、さらには医師のいない環境を生き抜くための「医療・衛生知識」が必須であった。

また、滞在管理(数名で灯台に長期間泊まり込む勤務形態)の際には自炊が必須であり、交代で全員の食事を作る「料理技術」も求められた。娯楽の少ない環境において、複数人で楽しめる「囲碁・将棋・麻雀」は必須科目であったという。さらに、生鮮食品の買い出しが困難なため、灯台敷地内での菜園が奨励(明治35(1902)年・菜園開墾奨励)されおり、鶏やヤギなどの家畜の飼育、食料調達のための釣りも生活に直結した重要な技能であった。


会場との質疑応答

参加者からの質問:「官舎で生まれたとのことだが、当時は産婆さんなどを呼ぶのも困難な状況だったのか。」


大谷氏の回答:「母を実家に帰らせず官舎で出産する判断をしたため、いざ産気づいたときには、父の同僚が数キロ離れた村まで走って産婆さんを呼びに行った。危うく父自らが取り上げる手前で、なんとか産婆さんが駆けつけてくれたという緊迫したエピソードを父から聞いている。」


参加者からの質問:「親子2代で灯台守をされるケースは多かったのか。」


大谷氏の回答:「私の同期や後輩にも『灯台で生まれた』という者は数人おり、比較的よくあるケースだった。多くの二世代目は親の背中を見てこの職を選んでいた。また、灯台守は地元(襟裳町など)では警察署長の次くらいに尊敬される職位として見られており、現地の女性と結婚するケースも非常に多かった。」


巨大レンズの謎に迫る:ハイパーラジアルレンズの衝撃


フォーラムの締めくくりとして、神奈川県の剣崎灯台などで活動し、「レンズ小僧」の愛称で知られる石島薫氏による灯台ミニ講座「第1等レンズより大きい!?ハイパーラジアルレンズとは」が行われた。


石島薫氏
石島薫氏
レンズ等級の定義と歴史

石島氏はまず、一般的に知られる灯台レンズの「等級(第1等〜第6等)」の定義について解説した。Wikipediaなどに掲載されている焦点距離や高さの基準は、フレネルレンズを発明したオーギュスタン・フレネルの没後に編纂された『フレネル全集/1866-68年)』や、フランスの灯台局長官であったレオンス・レイノーの文献が基になっていると考えられる。

しかし、実際の灯台レンズの高さは設計思想によって異なる。例えば、日本の「犬吠埼灯台」の第1等レンズと「室戸岬灯台」の第1等レンズを比較すると、犬吠埼の方が明らかに背が高い。これは、石油ランプ時代に光を無駄なく集めるためにカバーする角度を大きく設計した古い思想(犬吠埼)と、戦後の電化以降に部品点数を減らして合理的に製造した思想(室戸岬)の違いによるものである。石島氏は「レンズの大きさと光の強さ(光度)は必ずしも比例しない」と強調した。


なぜ第1等を超えるレンズが必要だったのか

講座の本題である「ハイパーラジアルレンズ」は、焦点距離が1,330ミリメートルに達し、第1等レンズ(焦点距離920ミリメートル)を遥かに凌ぐ世界最大のレンズ群である。

1870年代以降、より強い光を求めて大型のガスバーナー(直径290ミリメートルに及ぶウィトンのジェットガスバーナーなど)が開発された。しかし、この巨大な光源を従来の第1等レンズの中心に配置したところ、光源が発する高熱によってレンズが破壊されてしまった。さらに、光源が大きくなると光がレンズを透過する際に分散してしまい、遠くまで届かなくなるという光学的な問題も生じた。

この課題を解決するために設計されたのが、ハイパーラジアルレンズである。焦点距離を長くして光源からレンズまでの距離を離すことで、熱による破壊を防ぎ、同時に光の分散を抑えてより遠方へと強力な光を届けることが可能となった。

この巨大レンズは1880年から1928年の間に世界でわずか31基しか製造されず、現役で残っているのは世界で9基のみである。石島氏は、ハワイ・オアフ島のマカプウ岬灯台や、自身が最も憧れるポルトガルのサン・ビセンテ岬灯台の実例を、人物との大きさが比較できる写真や独自のグラフィックを用いて視覚的に分かりやすく解説した。


会場との質疑応答

参加者からの質問:「灯台のレンズは光を『増幅』させているというイメージがあるが、その仕組みを教えてほしい。」


石島氏の回答:「非常に重要な点で、実はレンズによって光の量自体が増幅されるわけではない。電気信号の増幅とは異なり、光源から出た光以上のエネルギーにはならない。レンズの役割は、本来であれば全方位に散らばってしまう光を『ギュッと1点に集約する(集光する)』ことである。室戸岬灯台が国内最強の160万カンデラを誇るのも、レンズの集光性能が極めて高いためである。」


参加者からの質問:「灯台によって光の出る方向(3方向、4方向、あるいは固定など)が異なるのはなぜか。」


石島氏の回答:「海上の船舶が『これはどこの灯台か』を識別するために、各灯台には独自のキャラクター)が設定されている。例えば『30秒に1回光る』『30秒に2回光る』といった違いを持たせるため、回転するレンズの面数を変えている。」


結びに代えて:引き継がれる航路標識の精神


フォーラムの最後には、来週「尻屋埼灯台(青森県)」で開催される「灯台ワールドサミット」への案内や、不動氏が計画している「灯浮標基地」の見学会といったイベントや船橋大神宮で毎年1月1日から3日に灯明台が公開されていることなどの情報交換が行われ、盛況のうちに閉幕した。

かつて僻地の過酷な環境で命がけで灯台を守り、家族と共に生きた「灯台守」たちの歴史。そして、彼らを過酷な勤務から解放するために尽力した技術者たちの情熱と技術革新。人がいなくなった現在の灯台にも、海の安全を守るというその「至誠」の精神は、最先端の技術へと姿を変えて確実に引き継がれている。今回のフォーラムは、デジタル化された現代の航路標識の背後にある、泥臭くも温かい「人と灯台の物語」に再び強い光を当てる貴重な機会となった。




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