令和3(2021)年2月14日放送スタートの第60作 NHK 大河ドラマ 「青天を衝け」は日本資本主義の父・渋沢栄一の生涯を描くドラマである。
また、令和6(2024)年に発行が予定されている新1万円札の肖像にも渋沢栄一が選ばれるなどその業績や人柄に注目が集まっている。
渋沢栄一といえば、深谷出身で、明治以降は深川に居を定めており、神奈川県内に生家や居宅跡があるわけではないが、ゆかりの地や逸話が残されている。
尊皇攘夷の思想に染まっていた文久3(1863)年には、従兄で義兄の尾高惇忠、同じく従兄の渋沢喜作らと、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜外国人居留地を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒すという計画をたてている(尾高惇忠の弟、尾高長七郎の懸命な説得により中止)。
また、慶応2(1966)年、慶喜が将軍となったことに伴って幕臣となり、パリ万国博覧会(1867年)に将軍の名代として出席する慶喜の異母弟・徳川昭武(1853-1910)の随員として御勘定格陸軍付調役の肩書を得て、フランスへと渡航する際には、一行と共に横浜から出港している。パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学する予定であったが、大政奉還に伴い、慶応4(1868)年、新政府から帰国を命じられ昭武と共にマルセイユから帰国の途につき、横浜港に帰国している。
実業家となった後は、横浜に正金銀行を、横須賀に船渠、箱根に牧場を興すなど数々の事業に関わっているほか、プライベートでも国府津(国府津館)や大磯(祷竜館・長生館)を定宿とし、箱根(福住楼・三河屋・松坂屋など)にも度々神奈川県内に来訪している。
ここでは、その渋沢栄一の足跡の一端を今に伝える、歴史的建造物や史跡についてレポートする。
(横浜市)
○象の鼻パーク
横浜開港150周年を記念して、象の鼻波止場を港湾緑地「象の鼻パーク」として整備。突堤部分を明治中期の姿に復元しているほか、徳川昭武一行がフランスに向けて出航した頃の様子は、舗装パターンを変えて表現されている当時の西側突堤部分で確認することができる。
○横浜正金銀行本店本館(明治37(1904)年竣工・国重要文化財)
横浜の貿易金融は開港以来外国人が独占していたが、明治13(1880)年、政府の強力な支援の下に外国為替、貿易金融専門銀行として横浜正金銀行が設立された。渋沢栄一は株主のひとりであった。現在も横浜馬車道に妻木頼黄設計、明治37(1904)年竣工の本店本館が神奈川県立歴史博物館として残されており、国重要文化財に指定されている。
○旧第一銀行横浜支店(昭和4(1929)年竣工・横浜市認定歴史的建造物)
第一銀行の前身は、明治6(1873)年、渋沢栄一により創設された第一国立銀行。日本最古の銀行と言われる。明治29(1896)年に一般銀行に改組し第一銀行となる。渋沢栄一は、創設時より総監督・頭取を務めている。
○旧横浜船渠株式会社第一号船渠(明治32(1899)年竣工・国重要文化財)
○旧横浜船渠株式会社第二号船渠(明治30(1897)年竣工・国重要文化財)
イギリス人技師・パーマーは、港湾の発達には船渠(ドック)・倉庫などの付帯設備の充実も不可欠であることを説き、それを受けて渋沢栄一と地元の財界人らにより横浜船渠が明治22(1889)年に設立された。明治26(1893)年、横浜船渠株式会社となる。明治30(1897)年に2号ドックが、明治32(1899)年に1号ドック完成する。会社は昭和10(1935)年、三菱重工業に吸収合併される。現在、2号ドックはドックヤードガーデンとして、1号ドックは日本丸メモリアルパークとして保存され帆船日本丸が存地され、それぞれ国重要文化財に指定されている。
○横浜市瓦斯局のガスタンク基礎
○国内最古のガス管
明治3(1870)年、実業家・高島嘉右衛門は伊勢山下石炭蔵前に横浜瓦斯会社を設立。
フランス人技師アンリ・プレグランを招いて工場の建設を進め、明治5(1872)年、大江橋から馬車道・本町通りまでの間にガス街灯十数基を点灯させたのが、日本のガス事業の始まりと言われている。その後、横浜瓦斯会社は、明治8年(1875)年に横浜瓦斯局、明治25(1892)年に横浜市瓦斯局となった。
明治7(1874)年、東京でもガス工場が整備されて銀座通りにガス灯が点灯し、明治9(1876)年、東京府瓦斯局が開設された。明治18(1885)年には、東京府瓦斯局が渋沢栄一らに払い下げられて東京瓦斯会社が設立され(のちの東京ガス株式会社)、昭和19(1944)年には、横浜市瓦斯局の事業も引き継いでいる。
横浜都市発展記念館の中庭には、市内で発掘された遺構の一部が展示されている。そのうちの二つが「国内最古のガス管」と「横浜市瓦斯局のガスタンク基礎」である。
いずれも横浜瓦斯会社が工場施設を設け増改築を重ねながら、大正12(1923)年の関東大震災までガス製造を行っていた、現在は横浜市立本町小学校の敷地となっている場所で発掘された。
ガス管は鋳鉄製で平成14(2002)年に発掘された。管の接合部分には瓦斯会社の創業時に資材を購入したイギリスのレイドロー社のイニシャルがあり、この管が国内最古のガス管であることを裏付けるものである。
また、平成25(2013)年には、レンガ積みのガスタンク(ガスホルダー)の基礎の一部が発見され、それぞれの一部を切り出し都市発展記念館の中庭に展示されている。
○旧伊藤博文金沢別邸(明治31(1898)年竣工・横浜市指定文化財)
渋沢栄一は、明治38(1905)年12月26日、佐々木勇之助(当時第一銀行取締役)・清水泰吉(同役員)を伴い、逗子経由で伊藤博文金沢別邸に赴き、初代韓国統監に就任したばかりの伊藤博文と会談した後、東屋に泊まり翌日帰京している。伊藤博文金沢別邸は野島公園内に保存、一般公開されている。
○浅野総一郎像
大正12(1923)年6月、渋沢栄一は盟友、浅野総一郎の銅像建設会会長ななる。銅像は大正13(1924)年5月に浅野学園内に完成し、栄一はその除幕式で挨拶をしている。この初代銅像は昭和18(1943)年に、戦時供出されてしまうが、昭和33(1958)年11月に再建された。
銅像の作者は掃部山公園の伊井直弼像と同じ慶寺丹長。銅像の高さは4.94m、重さは2.3t。台座の周りに回らされている鎖は、浅野総一郎が設立した東海汽船「地洋丸」のものと伝えられている。銅像は浅野学園の敷地内にあるが、見学も可能。
○黄君克強之碑
孫文とともに辛亥革命を主導した黄興(1874 - 1916)の顕彰碑。黄興の死の翌年、大正7(1918)年、総持寺に建立された。渋沢栄一は加藤子・田中義一陸軍大臣、床次竹二郎内務大臣、近藤廉平男爵、章宗祥中華民国駐日公使、犬養毅、頭山満、載天仇、箕浦勝人、杉田定一、小川平吉、尾崎行雄、寺尾博士、荒井賢太郎らとともに発起人を務めた。揮毫は犬養毅。
○横浜市開港記念会館
大正7(1918)年5月19日渋沢栄一は横浜開港記念館(現在の横浜市開港記念会館)において開催された横浜毎朝新報社主催の「戦後経営講演会」で「戦後に於ける国際道徳問題」と題した講演をしている。報道による聴衆は2千にあまりで会場は満員であったという。
○麒麟麦酒開源記念碑
麒麟麦酒開源記念碑の建てられているキリン園公園は、明治3(1870)年、米国人ウィリアム・コープランドが設立した「スプリング・バレー・ブルワリー」というビール醸造所があった。「スプリング・バレー・ブルワリー」は、明治17(1884)年に経営破綻。
「スプリング・バレー・ブルワリー」を継承し、後藤象二郎、岩崎弥之助(三菱財閥2代目総帥)、増島六一郎(中央大学初代校長)、益田孝(三井物産初代総轄)、ウィリアム・カークウッド(司法省顧問)、トーマス・グラバー、エルヴィン・ベルツ、カール・ローデ等とともに渋沢栄一も出資し明治18(1885)年に設立したのが「ジャパン・ブルワリー」である。
「ジャパン・ブルワリー」は明治21(1888)年に「キリンビール」を発売。明治40(1907)年には麒麟麦酒株式会社が設立され、大正12(1923)年の関東大震災までこの地でビール醸造を行っている。
(横須賀市)
○浦賀船渠第一号ドック(浦賀ドック)
○旧東京石川島造船所浦賀分工場(川間ドック)
荒井郁之助・榎本武揚・塚原周造が中心となり、明治30(1897)年に浦賀船渠が設立された。同時期、東京石川島造船所が、大型船の建造修理のため、当時、取締役会長であった渋沢栄一の提案により、建設に着手、明治31(1898)年に営業を開始した。その後、浦賀船渠と浦賀分工場との間で、艦船建造・修理の受注合戦が繰り広げられたという。この競争はダンピング合戦を生み、両社の経営を悪化させた。明治28(1895)年、石川島の浦賀分工場を浦賀船渠が買収、自社工場とすることで決着した。渋沢栄一は、度々工場の巡検を行った他、進水式への出席、演説を行っている。
昭和44(1969)年、住友機械工業と合併し住友重機械工業浦賀造船所となる。川間分工場は、昭和53(1978)年、新造船から撤退、橋梁専門工場となった後、昭和59(1984)年、閉鎖。跡地はマリーナとなっている。
平成15(2003)年、浦賀工場閉鎖。閉鎖後は資材置場として使用されてきた。
平成19(2007)年、浦賀船渠の第1号ドック、ポンプ施設、ドックサイドクレーンが近代化産業遺産に認定。令和2(2020)年、住友重機械工業は浦賀ドックとその周辺部を横須賀市に無償で寄付することを発表した。
浦賀船渠第1号ドックと川間ドッ跡は世界に4か所にしか現存していないレンガ積みドライドックのうちの二つとなっている。
○記念艦三笠
廃艦後の保存運動により大正15(1926)年、保存艦となった三笠だが、太平洋戦争と戦後、荒廃してしまう。昭和33(1958)年11月、三笠保存会が再興され、会長に渋沢敬三が、副会長には伊藤正徳、石坂泰三、澤本頼雄の三氏が、理事長に岡崎嘉平太氏がそれぞれ選出され、渋沢栄一はその評議員となる。その後、当会組織を財団法人と改める際に200万円を寄付している。現在も記念館三笠として保存公開されている。
(箱根町)
○須永伝蔵碑
明治12(1879)年、渋沢栄一は益田孝らと耕牧舎を設立、その翌年2月に箱根の仙石原で牧場開拓が始める。運営を任されたのは栄一の従弟、須永伝蔵(1842 - 1904)。須永は栄一の命を受けて仙石原に移住、耕牧舎の管理・運営にあたった。
当初の目的は牧羊であったが、羊の育成には不向きな土地であったため、牛馬育成へと軌道を修正、牛乳・バター販売がその営業の中心となった。仙石原での牧場経営は必ずしも順調ではなく、明治37(1904)年に須永が他界したことを機に、耕牧舎は牧畜中止。後に栄一は益田らと仙石原地所株式会社を設立、仙石原での土地利用は牧場から別荘地開発へと方向を転換した。
厳しい自然条件の中、耕牧舎で酪農経営を支えた須永伝蔵の顕彰碑が仙石原に建立されるにあたり、渋沢栄一は昭和6(1931)年7月、須永伝蔵記念碑を建立、その題額を揮毫している。この顕彰碑は今日なお仙石原のゴルフ場内に残っている。
○福住旅館 萬翆楼/金泉楼(明治11(1876)年/明治10(1877)年竣工・国重要文化財)
明治17(1884)年5月28日から7月1日にかけて、また明治19(1886)年12月8日から29日にかけて京阪地方を巡回する際に初日の宿として宿泊している。
また、明治40(1907)年8月15日から9月1日にかけて家族で箱根に避暑に訪れた際には帰りがけに福住旅館に寄り夕食と入浴をすましてから帰宅の途についている。福住楼は現在もなお箱根を代表する老舗旅館の一つとして営業しており、平成14(2002)年には現役旅館として初めて国の重要文化財建造物に指定された。
○三河屋旅館本館(大正13(1924)年頃・国登録文化財)
渋沢栄一は、小涌谷三河屋を夏の避暑の定宿としており、家族をともなって度々訪れていた。三河屋旅館は明治16(1883)年に創業の老舗旅館だが、令和2(2020)年に閉館し、事業を継承した藤田観光株式会社による改修工事を経て「箱根小涌園 三河屋旅館」として営業を再開した。
(大磯町)
○旧滄浪閣(伊藤博文邸跡・旧李王家別邸)
渋沢栄一は大磯の伊藤博文邸「滄浪閣」にも伊藤博文を訪ている。最後の訪問は、明治43(1910)年3月9日、夫人のところへの弔問であった(伊藤博文は明治42(1909)年10月ハルビンで暗殺された。)。 滄浪閣は大正12年(1923)の関東大震災により倒壊したため、現在の建物は李王家により大正15(1926)年に再建されたもの。昭和26(1951)年に民間企業に売却され、平成20(2008)年11月に大磯町指定有形文化財に指定された。
現在は、明治記念大磯庭園の未開園区域に含まれており、見学することはできない。
(参考)
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