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[レポート]現場検証 - こどもの国【THE HERITAGE TIMES YOKOHAMA KANAGAWA】



東京都台東区にある国立近現代建築資料館では、「令和4年度収蔵品展「こどもの国」のデザイン ー 自然・未来・メタボリズム建築」を開催している。

これは、近年、社会福祉法人こどもの国協会から国立近現代建築資料館に寄贈された、こどもの国の施設建設にあたって、こどもの国建設協力会において作成された事業記録に関する書類、工事契約書、寄付金関係書類など文書資料(施設の設計を担当した建築事務所が作成した青焼き図面も含む)を展示するものである。

[THE HERITAGE TIMES YOKOHAMA KANAGAWA]では、展示に関連して、これらの計画や設計によって完成した現地の様子をレポートする。



横浜市青葉区にある「こどもの国」は、当時の皇太子殿下(現上皇陛下)のご成婚を祝して全国から寄せられたお祝い金を、子供のためになる施設に使ってほしいという殿下の御意向を受け、国費をはじめ多くの民間企業や団体・個人の協力を得て、昭和40(1965)年5月5日のこどもの日に開園した児童厚生施設である。

東急こどもの国線こどもの国駅を降りるとそこには駐車場が広がっており、駐車場の先端にある歩道橋を渡った先に入口がある。

入園券を購入し、改札ゲートを通るとその先は緩やかで広い登り坂になっている。

大きく「こども国」のシンボルマークが入ったこの登り坂は、子どもたちが自由にチョークで絵を描ける「落書き広場」になっており、閉園前の時間帯には、思い思いの絵が広がっている。



広い坂道を上り切ると正面に「中央広場」が眼下に広がる。元々の谷戸地形を生かし、周辺を樹林地に囲まれた広場は芝生で構成される12,000平方メートルの広場である。この「落書き広場」と「中央広場」を二つの空間に通っている陸橋は浅田孝の設計であるが、新たな空間への期待感を膨らませるゲートの役割を果たしている。



この広場を進んでいくと左手に見えてくる赤い大屋根が浅田孝設計の「平成記念館(皇太子明仁親王殿下御結婚記念館)」が見えてくる。平成記念館の旧名称は「皇太子記念館(皇太子殿下御結婚記念館)」。構想時から計画されながら資金繰りの問題などからから着工が遅れ、完成したのは開園後の昭和47(1972) 年3月のことだった。



当初は地下1階に貴賓室と会議室、1階に舞台と客席382席、2階に音響室などのコントロールルームがあったが、令和3(2021)年、屋根の吹き替えとともに地下1階を多目的ルームへ、1階は舞台や客席を取り払い一面のフリースペースへ回収し、合わせて名称も変更された。

大屋根は上か見ると変形の四角形になっており、芝生の上に浮かんでいるようにも見える。

屋根の下に入ると一面に大きなフリースペースが広がり、建物と言うよりも「屋根付き広場」といったものに近いように思える。



平成記念館から右手に屋外プール(冬季にはアイススケート場となる)を見ながらさらに谷戸の奥に向かうと、児童エリアのイサムノグチ作品群が見えてくる。



最初に見えてくるのが、切り通し状になっている児童館エリアの通路で、奥の階段は児童センターへのエントランスになっている。左側に見える緑色のドアは、当初のトイレ入口であったが、現在は倉庫となっている。この切り通し場の通路を抜けて、奥のコンクリート製のアーチをくぐって階段を上がると非日常的なプレイグラウンドの世界に導かれるように構想されている。



エントランスを抜けた先にはコンクリート製の亀の甲のような「丸山」。直径6.9m、高さ2.1m。穴は直径80cmで中でつながっていて滑り台のようなトンネルになっている。子どもがかけ上がったり、滑りおりたり、中でつながっている穴に入ったりして遊ぶようになっている。建設当時、イサム・ノグチは何度もここを訪れ、ブルドーザーで盛り土する作業員に「もう2センチ低く」など、細かく指示していたという。

この「丸山」からエントランスの方を振り向くと、アーチが今度は「丸山」と重なり合うもう一つのまるやまのように見えてくる。これも意図的な演出なのであろう。



さらに進んだ奥に進んだ児童センターの向かい、小温室の奥の広場にある赤い8面体のコンクリート製の遊具「オクテトラ」がある。6角形の面4面と3角形の面4面を組み合わせた8面体。単体で置かれているものと、ピラミッドのように三つ積み上げたものがあり、子どもたちは穴の中に入ったり、登ったりして遊べるようになっている。ギリシャ語のオクタ=8とテトラ=4を合成して命名した。「オクテトラ」はイサム・ノグチを代表する遊具彫刻のデザインとして有名であり、全国各地の公園や広場に置かれているが、イサム・ノグチ本人が手がけたオクテトラは、このこどもの国のほか、香川、札幌など数か所しか存在しない。



イサム・ノグチは、米国ロサンジェルスで生まれ、3歳から14歳まで日本で過した後、単身渡米し、彫刻家を目指した。彫刻だけでなく、商業デザイン、舞台美術、絵画、公園設計など幅広い分野で芸術的才能を開花させた芸術家である。

こどもの国が開園した3か月後の昭和40(1965)年8月、イサム・ノグチは米国から招かれ来日、こどもの国設計集団に参加し、建築家、大谷幸夫氏とともに児童館エリア施設の設計を担い、4か月間、連日こどもの国を訪れ、当時、イサム・ノグチが構想していた「彫刻と遊具、広場の造形を一体にした楽園のような遊び場=プレイグラウンド」実現に向けて精欲的に活動した。



なお、児童館エリアには、児童センター(開園当初の児童センターは解体)と大小温室があるが、こちらの設計は環境デザイン研究所の仙田満氏。仙田満氏は菊竹清訓建築設計事務所出身で、在籍時にはこどもの国の林間学校を担当している。



児童館エリアを後にし、白鳥湖に向かい、黒川紀章設計のセントラル・ロッジや浅田孝設計の自然プールの痕跡を探したが見つけることができなかった。

ただ白鳥湖の先にある第二トンネルの手前のアジサイ園の前には「赤ちゃんの家」があり、この基壇部と通路は黒川紀章設計による「アンデルセン記念の家(昭和60(1985)年解体)」を活かしたものである。

一直線に伸びる通路と浮揚感のある鉄筋コンクリート製の基壇部にはメタボリズムの片鱗が読み取れる。



第二トンネルを抜けると牧場エリアとなる。牧場エリアには、ポニー牧場、牛・羊・牧場、ミルクプラント、こども動物園などがある。今回、探しているのは黒川紀章設計による休憩所「フラワーシェルター」である。

なかなか見つけることができなかったが、モルモットやウサギと触れ合うことができる「こども動物園」の園内(要別料金)にあることがわかった。

こども動物園の順路に沿って進むと小高い丘の上に、1対のシェルターを見つけることができた。



鋼製パイプとパネルを組み合わせて花が咲いた姿と閉じた姿をモチーフにしている。高さは4m。直径は開いたものが9m、閉じたものは6m。閉じたものの中央には水を飲む装置が設置されている。黒川紀章(1934 - 2007)は、このシェルターを含め、セントラルロッジと野外集会所、アンデルセン記念の家の一連の設計により昭和40(1965)年に高村光太郎賞を受賞した。

少し、植物が繁っており、休憩所としての機能は十分ではないかもしれないが、開園当初の姿を想像するのにはちょうど良い場所のように思える。



調査日が猛暑であったため、こどもの国牧場名物のソフトクリームで涼をとった後、交通センター(現自転車乗場)と林間学校(現総合グランド)の跡地を見て回ったがこちらも痕跡は確認できなかった。



今回は、「令和4年度収蔵品展「こどもの国」のデザイン ー 自然・未来・メタボリズム建築」に関連した場所を中心にレポートしたが、こどもの国は元々、旧日本陸軍の弾薬庫であったため、その遺構が現在でも多く残されており、戦争遺構・史跡としても今後の調査や保存等の取組が期待される。



浅田孝は(1921 - 1990)は、建築家グループ「メタボリズム」を結成し、戦後の日本における建築界を牽引した人物。こどもの国の建設においても設計を担当した「設計集団」で中心的な役割を果たしマスタープランを作成、事業全体の調整役も担っていた。また、浅田孝はこどもの国の建設とほぼ同時期に、当時の横浜市長・飛鳥田一雄の要請により横浜の都市づくりの計画策定に関わり、その成果は「横浜の都市づくり〜市民がつくる横浜の未来」により、具体化されることとなる。その後の飛鳥田市政における「子供を大切にする市政」「だれでも住みたくなる都市づくり」を基本とした施政方針やメタボリズムメンバーの都市づくりへの関与と、このこどもの国の建設時における浅田をはじめとしたメタボリズムメンバーの経験がどのように影響しているのか、今後の研究を待ちたい。



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