[レポート]第47回 歴史を生かしたまちづくりセミナー「J.H.モーガン建築の魅力」【THE HERITAGE TIMES YOKOHAMA KANAGAWA】
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- 10月7日
- 読了時間: 34分

第47回 歴史を生かしたまちづくりセミナー「J.H.モーガン建築の魅力」
令和7(2025)年9月28日(日)に開催された第47回 歴史を生かしたまちづくりセミナー「J.H.モーガン建築の魅力」の内容をレポートする。
開会
あいさつ 米山淳一氏(公益社団法人横浜歴史資産調査会常務理事)

皆さん、こんにちは。本日はようこそお越しいただきました。今日はモーガンの建築についてのセミナーです。最後までよろしくお願いいたします。
いま私たちがいるのは「ベーリック・ホール」という場所で、J・H・モーガンが設計した建物です。どうですか、この空間は。やはりモーガンの話を聞くには、こういう場で行うのが一番ふさわしいと思います。今回はこちらを会場としてお借りしました。横浜市緑の協会のご厚意によるもので、大変お世話になりました。この場を借りて御礼申し上げます。
それから、本日の開催にあたり都市整備局にもご協力いただき、私どもの団体が主催する形となりました。私たちは横浜で市と一緒に歴史を生かしたまちづくりを進めている団体で、様々な活動をしております。
たとえば「都橋商店街」をご存知でしょうか。それを残すために、私どもが所有し保存しています。永久に残せるかはわかりませんが、横浜の大切な宝として守っていこうとしています。
また、藤沢市にあるモーガン設計の「旧モーガン邸」をご存知でしょうか。あの建物の再建を私たちが担当し、いま復元に取り組んでいます。
横浜市では根岸の「一等馬見所」をはじめ、モーガン設計の建物が認定建造物となっています。モーガンの作品は横浜の街に数多く残されており、これらは今後修復を進めていく対象ともなっています。横浜の歴史的景観を形成していくうえで、モーガン建築はかけがえのない存在なのです。
今日、皆さんも山手を歩かれたと思います。外国人墓地正門、山手111番館、そして山手聖公会など、いずれもモーガンの手がけた建築です。もちろん他の建築家の作品もありますが、モーガンの建物が数多く並ぶことで、この地域の独特な雰囲気を形づくっています。言い換えれば、横浜の歴史的景観を支える大切な要素となっているわけです。
私たちは、これらモーガン建築を守り伝えることを念頭に活動を続けています。本日のセミナーでは、モーガンの作品を知り、そしてそれを将来にどう伝え残すかを皆さんと一緒に考えたいと思います。気軽に質問していただき、楽しく意見を交わしていただければありがたいです。
また、この会場内にはモーガン建築再建のための募金案内も置いてあります。ご協力いただける方は、ぜひお願いできればと思います。本日、寄付をしていただいた方には記念品もご用意していますので、お受け取りください。
どうぞ今日は楽しく、このセミナーを盛り上げていただければと思います。
ベーリック・ホールについて 降旗美樹氏(ベーリック・ホール館長)

館長の降旗美樹でございます。本日はお忙しい中、こちらのイベントにご来館いただき誠にありがとうございます。簡単ではございますが、ベーリック・ホールについてご説明いたします。詳しい活用の内容などは、この後に先生方からもお話がありますので、そちらも併せてお聴きいただければと思います。
ベーリック・ホールは、横浜山手の西洋館の中で7館のうちの一つとして一般公開されている建物です。2002年に公開され、今年で23年目を迎えました。非常に大きな建物で、現在は結婚式やパーティーのレンタル事業を月に1回程度行っております。そのほかにもコンサートを毎月開催しており、さまざまな形で建物を活かしながら保存を続けています。
公開されている7館すべてが、それぞれ同じようにイベントを行いながら保存活用をしています。簡単ではございますが、ベーリックホールについてご紹介いたしました。以降は先生方にお任せいたしますので、どうぞよろしくお願いいたします。本日はありがとうございました。
根岸競馬場一等馬見所の認定について 鈴木淳氏(横浜市都市整備局都市デザイン室担当係長)

皆さん、こんにちは。横浜市都市整備局都市デザイン室の鈴木と申します。本日はセミナーにご参加いただき、誠にありがとうございます。
今回のセミナーは第47回目を迎えました。ちょうど私の年齢と同じくらいの回数になります。ここまで続けてこられたのは、この歴史セミナーを大切に思ってくださる皆さんのおかげだと感じております。この場を借りて心より感謝申し上げます。
今回のテーマは「J.H.モーガンの建築の魅力」です。特にお話ししたいのは、こちらに写真もありますが、旧根岸競馬場の一等馬見所です。モーガンが設計した建物で、横浜市の認定歴史的建造物に、今年、2025年1月に認定されました。
この建物は、1987年に国から横浜市に建物と土地が返還されました。そこから40年近くを経て、ようやく横浜市として「残して活用していこう」という方針が示されたのです。数年後には内部公開もできるように整備が進むのではないかと期待しています。私たちも全力で取り組んでいきたいと考えています。
最後になりますが、私自身は東京出身で、この競馬場の存在を長い間知りませんでした。横浜に住んでいる方でも、一等馬見所をご存じない方は少なくありません。だからこそ、このようなセミナーを通じて建物の価値を知っていただくことが非常に大事だと思います。ぜひ今日聴いたことを、周りの方にも伝えていただけると嬉しく思います。
もう一つだけ付け加えます。セミナーのパンフレットにも記載していますが、横浜市都市デザイン室では、建物の改修などにふるさと納税を活用しています。市の財政状況は厳しく、修復したい建物であっても十分に支援できない場合があります。ですから、民間の皆さんや企業のご協力が不可欠です。こうした力があってこそ、歴史的建物は次の世代へ残っていきます。ご理解とご支援をいただければ幸いです。
以上をもちまして、横浜市都市デザイン室からのご挨拶とさせていただきます。本日はどうぞお楽しみください。ありがとうございました。
講演「モーガン建築の魅力について」 水沼淑子氏(公益社団法人横浜歴史資産調査会専門委員・関東学院大学名誉教授)

はじめに
皆さんこんにちは、水沼です。よろしくお願いします。今日は「モーガン建築の魅力」というテーマで、45分ほどお話しさせていただきます。内容は大きく3つに分けます。まず「モーガンとはどういう人物か」をアメリカ時代と日本時代に分けて紹介します。次に、「モーガン作品の特徴を、日本各地に残る作品を取り上げながらお話しします。そして3番目に、根岸競馬場と藤沢の自邸を例に、私なりに考えるモーガン建築の魅力を掘り下げます。最後にまとめとして「モーガン建築の明日」、つまりこれからの保存と活用について述べたいと思います。
モーガンとはどういう人物か
モーガンはアメリカ人の建築家で、ニューヨーク州バッファローに生まれました。その後一家でミネアポリスに移り、ここで建築の勉強を始めます。大学に通うのではなく、建築家の事務所で働きながら学ぶスタイルでした。ミネアポリスではダネルという建築家に師事し、20歳のとき、姉夫婦の新居「ヴォーウェン邸」を設計します。これは雑誌にも掲載され、クイーン・アン様式にシンプルさを加えた住宅でした。残念ながら現存しません。
その後ミルウォーキーに移り、キンボールやストラックといった建築家のもとで修行します。この頃、のちに妻となるオーガスタ・ジュヌビエーブ・ショッソーと出会い結婚しました。2人の間に二女一男をもうけます。しかし家庭生活は円満とはいかず、ブルックリン時代も不和が絶えなかったと遺族から伺いました。モーガンは建築家としては優秀でしたが、家庭人としては不十分だったという証言もあります。
1902年頃からニューヨークのフラー社に勤め、数多くの施工設計に携わりました。フラー社は当時アメリカ最大級の建設会社で、タコマビルやモノドノックビルなど高層建築を手がけた実績を持ちます。モーガンはアパート、ホテル、劇場など幅広い建築に関わり、特にマンハッタンのヒッポドローム劇場(約6000席)は代表作とされています。またニューヨーク中央駅の設計チームにも関わっていた可能性が高いと考えられています。
モーガンは建築家として順調に活動していましたが、やがてフラー社の日本事業に参加し、家族をアメリカに残して単身来日します。パスポート申請書によれば2年の予定でした。来日直後、フラー社の日本法人が設立され、モーガンは主任建築技師として所属します。その年、のちのパートナー石井たまのと出会いました。翌年には独立し、設計活動を始めます。
1923年、関東大震災に遭遇します。東京の日本郵船ビル内の歯科医院にいた際、床が崩れ落ちましたが九死に一生を得ました。この経験と震災後の膨大な建築需要、そして石井たまのとの出会いが、日本永住を決意させたと考えられます。モーガンは51歳で来日しましたが、その後も横浜を拠点に精力的に活動しました。
フラー社時代には丸ビル、日本郵船ビル、日本石油ビルなどの実施設計に関わりました。独立後は立憲政友会本部(後に震災で消失)、神戸のクレセントビルなども手掛けました。またミッション系の学校や教会建築に多数関わり、東北学院、松山高等学校(現・東雲学園)、関東学院、立教大学などに作品が残ります。住宅建築も多く、横浜山手や軽井沢の外国人住宅を数多く設計しました。
さらに銀行建築では、ユニオンビル、ナショナルシティバンク、チャータードバンク、香港上海銀行支店などを担当しました。震災後の横浜に必要とされた堅固な銀行建築を数多く残したことは特筆すべきです。その他にも、根岸競馬場スタンド、アメリカ領事館、ニューグランドホテル増築、ジェネラルホスピタルなど多岐にわたる建築を手掛けました。
モーガンはアメリカで培った最新の技術と経験を携え、日本の建築事情に適応させる柔軟さを持っていました。石井たまのとの協働もあり、職人や施主との調整を重ねながら、日本の近代建築に大きな足跡を残しました。
以上が、モーガンの経歴と作品の大まかな流れです。
モーガン作品の特徴
次に、具体的な作品を通してモーガン建築の特徴を見ていきましょう。
ここでまず注目したいのは、住宅建築のデザインです。モーガンの住宅は、外観は欧米のスタイルを基礎としながら、日本の風土に合わせてアレンジされていました。たとえばベランダやポーチを広く取り、窓を大きく設けて風通しを良くするなどの工夫が見られます。山手の住宅群はその典型で、外国人居留者が快適に暮らせるように考えられていました。
次に学校建築です。松山高等学校の校舎や東北学院のキャンパスは、シンプルで堅牢、かつ温かみのあるデザインが特徴です。モーガンは教育施設において、機能性と同時に学生が落ち着いて学べる環境づくりを重視していたことが伝わります。
そして銀行建築です。銀行は市民に信頼感を与えることが重要で、モーガンは外観に威厳を持たせつつ、内部は明るく利用しやすい空間を実現していました。チャータードバンクやナショナルシティバンクなどは、その典型です。
公共建築として特に印象的なのは根岸競馬場一等馬見所です。コンクリートを大胆に使い、曲線を強調した外観は迫力があります。単なる観覧席を超えて、近代建築の新しい表現を模索した姿勢が見て取れます。
モーガン作品の魅力
一方で旧モーガン邸は、住宅建築としての繊細さをよく示しています。自然光を多く取り入れ、窓の配置や風の流れを計算し尽くした設計で、家族が快適に過ごせる工夫にあふれていました。藤沢の大鋸という高台の立地を生かし、自然を感じられる空間だったと伝わっています。残念ながら火災で失われましたが、写真や図面からその魅力を知ることができます。
こうして見てくると、モーガンの建築は単に「洋風建築を持ち込んだ」ということではなく、人々の暮らしや地域の風土に即した設計思想があったことがわかります。その柔軟さと誠実さが、100年近く経った今も人々を惹きつける理由だと思います。
モーガン建築の明日
最後にまとめとして一言申し上げます。モーガン建築を守り伝えることは、単に古い建物を保存することではありません。その背後にある思想や、横浜をはじめとする都市の歴史を未来へつなぐことでもあります。これから根岸競馬場や旧モーガン邸の保存・再建といった課題に向き合っていく中で、私たちはモーガンの建築を通じて「歴史をどう生かすか」を考えていく必要があります。
本日の講演が、皆さんにとってモーガン建築を改めて身近に感じ、未来に引き継ぐ大切さを考えるきっかけになれば幸いです。ご清聴ありがとうございました。
シンポジウム「モーガン建築を伝え残すために」
コーディネーター
後藤治氏(公益社団法人横浜歴史資産調査会理事・工学院大学教授)
パネリスト
日高嘉継氏(公益財団法人馬事博物館・馬の博物館学芸部長)
森まゆみ氏(公益社団法人横浜歴史資産調査会理事・作家)
水沼淑子氏(公益社団法人横浜歴史資産調査会専門委員・関東学院大学教授)

(後藤)
ただいまからパネルディスカッションを始めます。最初に日高さんと森さんからプレゼンをいただいて、その後に議論へと進めたいと思います。
まず日高さんには、先ほど水沼先生から建築の魅力についてたっぷりとお話がありましたが、歴史的建物というのは建築そのものだけでなく「どのように使われてきたか」という点も非常に重要である、という観点からご発表いただきます。具体的には、根岸競馬場や一等馬見所の背景についてお話しいただきます。
続いて森さんからは、建物そのものだけでなく中身が大事であるということについてお話をいただきます。実は私も米山さんも、森さんとお会いするたびに「建築は中身が大切だ」と繰り返しご指摘いただいてきました。今日はまさに、そのトータルな視点での背景について語っていただけると思います。
まずはこのお二人のプレゼンを聞いていただき、その後のディスカッションに進みます。ディスカッションでは、水沼先生からお二人のご発表についての感想をいただきながら、議論を深めていければと思います。それでは、日高さんからお願いいたします。

(日高)
皆さんこんにちは。馬の博物館の学芸部長、日高嘉継と申します。本日はよろしくお願いいたします。
馬の博物館は現在休館しております。48年間使ってきましたが、老朽化が進み、新しく建て直すこととなりました。2029年春に再オープンを予定しております。それまでの間はご不便をおかけしますが、どうぞご容赦ください。
休館中の取り組みとしてご紹介させていただきます。HPの馬の博物館、または「馬の博物館 やまさき」で検索していただくと、休館中の4年間、連載予定の漫画をご覧いただけます。根岸競馬場の歴史をテーマとしたもので、競馬漫画の第一人者・やまさき拓味先生による作品です。無料で公開しており、月2回更新ですので、ぜひご覧ください。
さて、現在「競馬」というと、スポーツやレジャー、あるいはギャンブルという認識が一般的です。しかし、その歴史を考えますと、横浜で始まった洋式競馬のルーツは、日本の近代政治史において非常に重要な役割を果たしてきました。本日はその点をお話しいたします。
日本で洋式競馬が始まったのは1860年9月1日、元町での開催でした。開港と同時に来日した欧米人たちが、自分たちのために行ったのが始まりです。ここ港の見える丘公園で行われた競馬では、特別に日本人武士も招かれ、普段は和鞍に乗っている彼らに、突然洋鞍に乗せて走らせましたが、イラスト・レーテッド・ロンドン・ニューズという居留外国人向け新聞に見事な騎乗だったという文章とイラストが掲載され、その新聞は現在も残っており、これがその写真です。

その後、競馬は中華街や山手など場所を変えて行われましたが、いずれも仮設で、欧米人は恒久的な競馬場の建設を強く要望しました。背景には「キングオブスポーツ」と呼ばれる競馬は、特にイギリス人の愛着心が強く幕府に強い打診がありました。しかし生麦事件をきっかけに、場所の第1条件が安全面にかわり、東海道から遠く離れたな場所として選ばれたのが根岸です。1866年冬に根岸競馬場が完成し、翌年の1月を皮切りに、翌々年からは定期的に春秋の開催が行われました。
当初は外国人のための競馬場でしたが、日本の皇室や政財界の要人も招かれるようになります。これは大きな意味を持ちました。当時政府は不平等条約に苦しんでおり、何とか改正しようと大使館に毎日のように日参しますが門前払いで困っていました。しかし招待された根岸競馬場に来てみたら面会を切望していた各国の大使が全員揃っていて、このチャンスを生かそうと考えました。そこで賞金支出や設備改築・拡充などして競馬場をバックアップすることとし、欧米各国の外交官と交流の場として根岸競馬場が活用されました。明治天皇も12回足を運び、1899年(明治32年)に条約改正が結実すると、13回目の大行幸が行われ、その後天皇は一度も訪れなくなりました。つまり競馬場は外交交渉の根回しの場であったのです。
その後、条約改正により治外法権が撤廃されると、日本の刑法を適用しなければならないため馬券発売が禁止されるはずでした。しかし日英同盟など国際関係もあり、政府は見て見ぬふりをして競馬が続きました。その様子を見ていた日本人同士が立ち上がり競馬場を造り、日本人主催の競馬が開催され、馬券発売も行われました。しかし不正や煩雑な運営が相次ぎ、政府も見て見ぬふりを出来ず新刑法を発令し馬券発売を禁止しました。そうなると収入のない競馬場は成り立たず結局は統合され、統合された競馬場が今日の中央競馬の前身となりました。
競馬は単なる娯楽ではなく、軍馬育成のためにも不可欠でした。競馬を行えば賞金が生産者にも渡り、良質な馬の生産意欲につながります。国家的に競馬を維持する意義がそこにありました。
大正12年には競馬法が制定され、馬券発売が正式に認められました。しかし同年の関東大震災でスタンドが半壊し、コースを避難所として活用したため根岸の秋の開催は中止せざるをえませんでした。それでも翌年から競馬は復活し、昭和初期には大人気となります。昭和5年から6年にかけて現在残る大スタンドも完成し、多くの観客で賑わいました。
しかし昭和16年、戦争の影響で根岸競馬場は閉鎖されます。高台に位置し横須賀の軍港がよく見えるため、スパイ活動を警戒した海軍が接収したのです。以後、戦後は連合軍に占領され、昭和52年に一部返還されて現在に至っています。
以上のように、根岸競馬場はスポーツや娯楽としての競馬の場であるだけでなく、戦前は日本の近代史において外交・軍事・産業などさまざまな側面で重要な役割を果たしました。その意義を皆様にご理解いただければ幸いです。本日はありがとうございました。

(森)
私が近代建築の保存に関わったのは、1984年に地域雑誌「谷中・根津・千駄木」を創刊してまもなく起きた、上野の東京藝大の奏楽堂とそのパイプオルガンの保存運動で、之は上野公園内に移築保存して、重要文化財にも指定され、今もよく使われています。
その後、バブルの時代が来て、丸の内の東京駅の保存運動にも関わりました。1987年のことです。当時、大正3年、辰野金吾設計による赤レンガの駅舎は古びてしまい、高層ビルに建て替えるという計画が持ち上がりました。
そこで市民や研究者が声を上げました。「東京駅丸の内口は日本の近代建築の象徴であり、文化遺産として残すべきだ」と。メディアを味方に付け、署名運動やシンポジウムを重ね、メディアも大きく取り上げました。その結果、東京駅は解体を免れ、後に復原工事が行われて、今重要文化財にも指定されました。あの時の市民の声がなければ、赤レンガ駅舎は確実に失われていたと思います。
一方で、丸ビルや銀行倶楽部は取り壊されてしまいました。モーガンが設計に関わった旧丸ビルは、日本で初めての本格的な鉄骨鉄筋コンクリート造の事務所ビルとして大変重要な存在でしたが残せませんでした。あのときコンクリートミキサーを横付けにして例のないスピードで建造されたと証言が得られました。あれは1995年の神戸の震災後で、「耐震性に問題がある」という理由でたくさんの建物が壊されました。
その後、三菱一号館が復元されました。コンドル設計のオリジナルは1960年代に壊されましたが、1990年代にレンガを積み直す形で復元され、現在は美術館として活用されています。それなら最初のをこわさなければ良かったのに。
そのあと戦後の名建築の前川国男設計の東京海上ビルも壊されました。これも保存運動が起きましたが、オフィスビルの機能に問題がある。外壁の落下が心配という理由で。
同じ時期、東京の下町でも別の保存運動が起きていました。それが「谷根千」と呼ばれる谷中・根津・千駄木の地域です。この辺りは関東大震災、戦災を免れたために、木造の住宅や寺町の風景が奇跡的に残っていました。路地も長屋もありました。昭和の暮らしがそのまま感じられる町並みは、他では失われつつあっただけに非常に貴重でした。
それが1980年代後半、バブルという時代になると、地価が異常に上昇し、マンション建設や道路拡幅によって町並みが壊される危機が迫りました。これに対して立ち上がったのが、地域の住民や文化人たちです。「谷根千工房」が発行した地域雑誌『谷中・根津・千駄木』はみんなをつなぐ存在でした。地域の小さな出来事や建物の魅力を掘り起こして記事にし、外部の人にも伝えました。読んで関心を持った人が訪れ、また応援してくれる。誌面で住民が討論する、意見を言う。そうした地道な活動が大きな力になっていきました。
保存の形も東京駅や丸の内とは違いました。谷根千では制度や行政による「文化財指定」ではなく、住民が自分たちの暮らしを守るために声を上げ、町並みを維持する方向へ進みました。たとえば古い家を壊さずに貸し出してカフェにしたり、空き家をリノベーションしてギャラリーにしたりと、生活と一体になった活用方法が模索されました。
一方、横浜の保存運動はまた違う特徴を持っていたでしょう。横浜では、都市デザイン室や認定歴史的建造物制度など、行政も先駆的でしたし、専門家と市民が協力し、保存と活用を進めてきました。洋館や近代建築を「都市の資産」として位置づけ、制度的に守っていこうという取り組みを学びになんども横浜に来ました。
こうして見比べると、保存運動は地域ごとに方法が違うことが分かります。けれども、声を上げなければ失われてしまうし、声を上げ続ければ残せることもある。東京駅が残ったのも、谷根千の町並みが守られたのも、横浜の洋館が生き残っているのも、その時代の人々の努力と情熱があったからです。そして根岸競馬場が日本初の居留地民のための、また条約改正の社交場としての競馬場なら、上野の不忍池競馬場は、富国強兵のための馬の改良をめざした日本で二番目の競馬場でした。また横浜でたくさんの設計をしたJHモーガンは、丸ビルの設計者でもあり、神戸にもまだチャータードビルが保存活用されているように、いろんな土地はそれぞれがつながっているのです。
(後藤)
私にいただいた時間は4時半までなので、本当は会場の皆さんから質問を受けたいと思っていたのですが、今回はその時間はなさそうです。もし少し余れば受けられるかもしれませんが、ご容赦ください。
最初にも述べましたが、建物を残していくためには応援してくださる方を増やす必要があります。建築が好きな人は当然味方になってくれますが、それ以外の人をどう巻き込んでいくかがとても大事です。根岸の馬見所のような建物を考えると、現在中央競馬のファンは非常に多く、皆さん日本中央競馬会にしっかり資金を投じています。その人たちの関心をこうした歴史的建物に向けてもらい、その一部でも保存や再生に回ってくれば大きな助けになるわけです。そうした思いもあって、今日は日高さんにお話しいただいたという経緯があります。もちろん日高さんご自身が直接行動するわけではありませんが、今日の話を通して、根岸競馬場には奥深い歴史があることを知っていただけたのではないでしょうか。
森さんについては、先ほども触れましたが「建物そのものだけでなく広がりを持たないといけない」ということを、私たちもしばしば指摘されています。最近では根岸競馬場もそうですし、モーガン邸もそうですが、残すことが決まったからといってすぐ実現できるわけではありません。その後にもう一歩、もうひと声が必要で、そこに至るまでには大変な苦労も伴います。だからこそ、より広い応援を得ていくことが本当に重要だと感じています。
それではここで、水沼先生にお二人のプレゼンを聞いてのご感想やお気づきの点をお願いできればと思います。
(水沼)
ありがとうございます。日高さんのお話を伺って、改めて根岸競馬場という場所が持つ力、その重要さを強く感じました。特に、日本レースクラブの活動や、平面図に会員室など具体的な用途がきちんと記されていることを見て、実際にそこでどんなことが行われていたのか、どんな物語が生まれていたのかに思いを馳せました。
当時の人々も、今の私たちと同じように「何番の馬が強いだろう」と話したり、女性たちは着飾って出かけていたりしたのかもしれません。そうした場での活動や賑わいをもっと具体的に知ることが、歴史を理解し、根岸競馬場の価値を深く認識していくために必要だと感じました。
華やかな時代の写真が残っていないはずはないと思います。鉛筆を舐めながら馬券を考える人の姿でもいい、そうした写真がもっとたくさん出てきても良いでしょう。先ほど紹介された、人が豆粒のように写っている写真を拡大して、当時の人々がどんな格好で、どんな表情で競馬場に集まっていたのかを見ていくこと。それこそが、根岸競馬場の歴史を紐解き、理解を深める手がかりになると思います。
私自身、競馬というとつい「ギャンブル」というイメージを持ってしまいがちですが、実際には社交場としての大きな役割も果たしていたのですよね。そうした視点を掘り起こして示していくことで、より多くの人に根岸競馬場の意味を知ってもらえるのではないかと感じました。条約改正に貢献したという歴史的役割ももちろん大事ですが、それを含めて、根岸競馬場には本当に豊かなストーリーがあり、その魅力は非常に大きいと改めて思いました。
それから、森さんのお話を伺って、地域の中で建物をどう愛してもらえるかということについても考えさせられました。私も陰ながらモーガン邸の保存運動を応援していますが、藤沢でもまだモーガン邸の存在を知らない人がたくさんいるんです。そして「再建しよう」と私たちが取り組んでいること自体も、少しずつ忘れられていってしまう。行政、つまり藤沢市もなかなか積極的にテーブルについてはくれません。その中でどうやって突破していくのかが課題だと感じています。
やはり「モーガンとはどんな人物か」「モーガン邸にはどんな意味があるのか」という発信やアピールが十分でないのだろうと思いました。もっと広報戦略を考え、計画的にモーガン邸再建への道筋を描いていく必要があると強く感じています。
(後藤)
はい、ありがとうございます。ではここからは、日高さんと森さんにそれぞれご自身の立場でプレゼンをしていただきましたので、今後この根岸の一等馬見所やこの場所を、より生き生きと活用していくためにどんな可能性があるのか、あるいはどんな協力ができるのかについてお話しいただければと思います。逆に「こういうことをやったらいいのではないか」といった提案でも結構です。少しずつお話をいただければと思います。ではまず、日高さんからいかがでしょうか。
(日高)
私はJRAの関係団体に所属する立場ですので、お金のことについてはあまり責めないでいただきたいと思います。立場上、詳しく申し上げることはできません。よく「中央競馬会はたくさんお金を取っているのだろう」と言われますが、実際には馬券を買うと25%が徴収され、そのうち15%はすべて国に納めています。残りの10%で、私ども関係団体の職員の給与や施設の維持管理など、すべての経費を賄っています。決して儲けているわけではなく、JRAが莫大な資金を持っているというのは大きな誤解です。本来なら、その15%を持っていっている国に何とか協力していただきたいと切に願っています。せっかくご参加いただいた方々にだけには共有させていただきました。
それから、先ほど少し誤解があったと思います。「日本(ニホン)レースクラブ」ではなく「日本(ニッポン)レースクラブ」が正式名称です。また「馬主」は、正しくは「ウマヌシ」と読みます。「バヌシ」と言う方も多いですが、どうしても「バ」と読みたい場合は「バシュ」と読んでいただければ、これも正解でございます。
私どもとしては、2029年の春に新しく馬の博物館をリニューアルを予定しています。常設展示室を2つ設ける計画で、そのうち1つは横浜競馬に関する展示室です。その意匠にモーガンの一等馬見所の意匠を一部取り入れ、モーガンの功績を紹介する予定です。さらに、遺品などいくつか残っている資料も展示する予定です。そうしたかたちで横浜競馬の歴史やモーガンの業績をアピールしていきたいと考えています。
(森)
今日、水沼先生と日高さんのお話を聞いて、本当にいろいろな興味が湧いてきました。私のところでも不忍池競馬を調べてみたのですが、それほど資料が出てこないんです。ただ、この「馬見所」という言葉もそうで、どう読むのか迷うことがあります。「ウマミドコロ」なのか「バケンジョ」なのか、フリガナがないので誰も正確にはわからない。だからこそ振られていないのだと思うのですが。
明治天皇が競馬を大変お好きで、そのためにとても立派な建物が不忍池の周りにも建っていました。競馬の歴史についても非常に興味を持ちました。私は一度だけ「オークス」という牝馬のレースに招かれて行ったことがあるのですが、とても面白い体験で、観戦しながら来場者と話したりして楽しい時間を過ごしました。
私にとって競馬といえば、『マイ・フェア・レディ』のイライザが登場するあのダービーのシーンの印象が強くあります。もし根岸にもあのような華やかな文化があったのなら、どのようなことが行われていたのかをもっと細かく知りたいと感じました。
また、モーガン邸についても、以前は「もうほとんど残っていないのでは」と思っていましたが、今日のお話で、実際にあそこで生活していたモーガン夫妻の姿が少しイメージできました。これがもし朝の連続ドラマになるなら、妻との愛や関係性、例えば、たまのさんの人柄や、なぜモーガンと結婚することになったのか、ご両親の家がどういう背景を持っていたのか、そうした点ももっと知りたくなるところです。
そして、水沼先生が大変なご労作をまとめていらっしゃるのに、それがまだ広く売られていないのは残念に思います。やはりメディアの力は大きいと感じます。例えば「谷根千」の場合、地域内で最大1万6千部が売れた時期がありました。みんな身銭を切って自分の地域について書かれた歴史や記事を読んでいたわけです。住民のレベルが高かったのか、あるいは私たちが良いものをつくったのかは分かりませんが、そういう地道な活動を26年間続けてきたことで地域内に同志がたくさん育ち、保存活用もみんなが支援してくれました。
今はYouTubeやインターネットを使うこともできますが、やはり人間同士の信頼に基づく地道な積み重ねが大切だと思います。その一方で、谷根千はいまやオーバーツーリズムの観光地になってしまい、海外の方が昼間から立ち飲みをしているような状況で、良いことばかりではありません。しかし、それでも私たちの思いを受け継いで活動してくれる若い人たちがたくさん出てきています。
(水沼)
モーガンとたまのさんの出会いはわかっています。東京のステーションホテルで、たまのさんが英語の本を読みながら友人と待ち合わせをしていたところ、英語の本を読んでいる姿を見てモーガンが声をかけました。つまり、モーガンが話しかけて二人は知り合ったのです。その後、仲良くなり、パートナーとなりました。
たまのさんはその後、長年にわたりモーガンの伴侶として生活を共にしました。「横浜新聞」という新聞の第一号にはモーガンとたまのさんの記事も掲載されています。残されている資料はいくつかあり、それらを改めて掘り起こしていくことは大切だと思います。
二人の住まいとしてのモーガン邸の役割は大きいです。建築家としての功績だけでなく、生活の場として夫婦がどのように暮らしていたかを伝えることは、人々にとってイメージを持ちやすく、物語性のある歴史として受け止められると思います。
(後藤)
そういう意味では、モーガンと日本レースクラブの縁や出会いについても、本当はもっと掘り起こしていく必要があると思います。私は競馬ファンなので強く感じるのですが、日本の競馬は世界的に見ても特殊で、いわばガラパゴス的な存在です。こんなに庶民に開かれていて、しかも単なるギャンブルではなく文化的に根付いた形で売り上げが伸びている例は、世界的に見ても非常に珍しいのです。その出発点がまさに根岸だったわけです。
日本中央競馬会としては周囲から言われないとなかなか発信しにくい部分もありますが、日本競馬を作り上げたという歴史は、世界に誇れるものだと思います。日本の馬が海外の馬に追いつくために努力を重ねてきましたが、二十年ほど前までは全く勝てませんでした。それがようやく最近になって海外でも勝てるようになってきた。凱旋門賞も、これまで日本馬はまだ勝てていませんが、2着に入るなど、あと一歩のところまで来ています。
また、不平等条約の歴史にも重ねられると思います。アメリカのボストンには「フリーダムトレイル」があり、独立宣言の歴史をたどれる観光ルートとして大変な人気を集めています。アメリカ人にとって、自由の国をつくった歴史がそこにあるという誇りが、何年経っても人を引きつけ続けているのです。日本の場合も、不平等条約を解消するために近代的な監獄を建設しました。私が関わっている奈良監獄は、まさに欧米と同じ収監システムを導入することで「不平等条約を解消してあげよう」と言われ、必死になって作られたものでした。今は星野リゾートが入ってホテルとして再生しようとしています。そうした歴史とも、この根岸の歴史は重なっていると思うのです。
だからこそ、この場所には奥深い歴史があると感じます。再生の仕方はいろいろ考えられますが、単純に資料館にすればいいというものではありません。これだけ大きな建物を資料館にすれば維持管理費が膨大になります。海外では、一部を資料館に活用しながら、大胆に手を入れて収益を上げつつ保存している例がたくさんあります。
例えば競馬場ではありませんが、イギリスのアーセナルという伝統あるサッカーチームの事例があります。チームがスタジアムを移転した後、古いスタジアムは壊さずに再生され、高級マンションに生まれ変わりました。「かつてアーセナルのスタジアムだった」という付加価値で即完売となり、その周辺の治安や街の雰囲気までもが改善されました。
根岸の場合は状況が違いますが、「横浜の根岸で何をやれば市民のニーズに合い、維持費も賄え、なおかつ地域の歴史を思い出させる場になるのか」という問いには、まだまだ検討の余地があります。だからこそ、市民の皆さんと一緒に横浜市に考えてもらうことが、ヘリテイジの観点から非常に重要だと思います。
さて、残り時間も少なくなってきましたので、最後にパネリストの皆さんから今日の感想や今後へのエールを一言ずついただければと思います。水沼先生から順番にお願いできますでしょうか。
(水沼)
今日はありがとうございました。
モーガンの研究をしていたのは、おそらく15年ほど前になると思います。モーガン邸を守る会の活動の延長として取り組みました。当時、モーガンについては分からないことがあまりにも多く、「一体どんな人物で、どんな仕事をしていたのか」を知りたいと思い、「日本建築史」という雑誌に載っていた記述を手がかりにアメリカへ調査に行きました。その成果をなんとか本にまとめることができました。
なぜそこまで調べたいと思ったかというと、やはりモーガン邸が火災で失われてしまったからです。当時は、復元にそれほど時間がかかるとは思っていませんでした。いずれ元の姿に蘇るだろうと考えていたのです。実際、横浜国立大学の大野先生の事例紹介や、西和夫先生が資料をたどってくださったこともあり、復元の道筋は比較的早く見えるだろうと思っていました。ところが、実際にはさまざまな事情で長い時間がかかりました。
今日こうして改めてお話しする機会をいただき、自分自身を振り返って感じたのは、研究から少し距離を置いていた時期もあり、モーガンへの関心が時間の流れとともに少しずつ薄れていたということです。特に復元がなかなか進まない状況の中で、じれったさを感じていたのも正直なところです。
しかし今回、根岸競馬場が認定を受けたことをきっかけに、モーガン邸をもう一度見直し、モーガンという人物がどんな人で、日本でどんな暮らしをし、どんな思いで生きていたのかを知るための大事な手がかりだと改めて認識しました。研究者として少し恥ずかしい気持ちもありますが、強くそう感じました。
スライドの最後に「次の一歩へ」と書いたように、この二つの建物に引き続き注目しながら、私たち自身の手で育てていき、次の世代へ伝えていくことができればと思います。本を持参できず、セールス下手で申し訳ありませんでした。
(森)
今日はありがとうございました。こういう機会があって、モーガンという人がやっと少し、人ごとではなく身近に感じられる存在になりました。
今日競馬場に行ってみると、朝早くから近所の子どもたちがバスケットをしたり、公園で遊んでいたりして、その景色がまるでロンドン郊外のグリーンベルトのようでした。ただ、あの競馬場に当時の人々がどうやって訪れていたのか、この山の上の不便な場所にあえて建てられた理由なども興味深いところです。
イギリスではパブリックフットパスという制度があり、私もかつて挑戦して1日で50キロ歩く企画に参加したことがあります。38キロで断念しパブでビールを飲みましたが、美しい緑の中を歩きながらモーガンの建物を巡るようなフットパスを整備したり、馬車を走らせたりするのも面白いのではないかと思います道路交通法上も馬車は走ることが可能で、私たちも神宮外苑を守る活動の中で馬車を頼み、1日で13回も周回したことがあります。問題なく走れましたので、横浜の街を馬で巡る企画も魅力的ではないでしょうか。
また、今日初めてモーガンがセントラル鉄道会社に勤め、しかもセントラルステーションを手がけたことを知りました。私は東京駅の保存に関わっていた時期にニューヨークで既に壊されたペンシルベニアステーションと現存するセントラルステーションを比較して見に行ったことがあります。セントラルステーションは本当に素晴らしく、天井には星空が描かれていて、名物のニューヨークチーズケーキやオイスターバーも堪能し満足しました。そうしたニューヨークやモーガンの生まれたバッファローとの連携も、面白いのではないかと思います。
(日高)
昔、モーガンのスタンドが建った頃には、すでに山元町まで電車が走っていました。そこから降りて歩くと、今の山元2丁目、3丁目あたりのバス停付近に入り口があり、そこからお客様は登って入場していました。また、不動坂から歩いてくる方や、人力車で登ってくる方もいました。途中にはお茶屋もあり、休憩してからまた登っていったのが明治初期の競馬場への行き方です。
当時、新スタンドの周辺には素敵な食堂もでき、普段は食べられない洋食、例えばマカロニなどが提供されました。これが大評判で、子どもたちはお父さんに連れて行ってもらうのを楽しみにしていたという記録も残っています。
表彰式は今は馬場で行われますが、昔はスタンドの中央で行われていました。根岸競馬場にはその当時の表彰場所も少し残っています。
しかし戦後、海軍の接収や連合軍による占領により、多くの資料が失われ、受け継ぐことができませんでした。そのため、外部の資料を集めて現在の知識を補っています。この作業は今も続けています。
競馬自体は江戸時代末期から始まり、当初は外国人が自分の馬で競争する形でした。その後、賭けが入ってきたり、複数の馬主間で不平等が生じたりしたため、騎手という職業が誕生しました。最初は外国人騎手が多かったのですが、徐々に日本人騎手も活躍するようになりました。例えば寺上さんという騎手を特定するのに、私は37年かけて調べました。
現在、この寺上さんを主人公にした漫画も制作されており、4年間で1,000ページにわたる大長編です。ぜひ読んでいただきたいです。
これからも資料をもとに調査を続け、モーガンや根岸競馬場の歴史を掘り下げていくのが私の仕事です。よろしくお願いいたします。
(後藤)
今後の活用のヒントは、これから調べる歴史にきっと詰まっていると思います。それに期待したいと思います。
私の今日のまとめとしては、やはり私は普段、建築業界の方としか関わらないのですが、日高さんのような方と情報を共有するだけで、将来の活用の幅が大きく広がるのではないかと感じました。
ですので、横浜市やヨコハマヘリテイジ関係の方々には、日高さんたちの調査情報をうまく活かしていただきたいと思いますし、逆にモーガン邸の再生や活用にも、こうした情報を活かしてもらえればと思います。以上が今日のまとめです。
閉会
あいさつ 大橋早苗氏(公益財団法人横浜市緑の協会 山手西洋館等代表統括)
皆さま、本日はご参加いただき誠にありがとうございます。パネリストの皆さまからも大変興味深いお話をたくさん伺うことができました。改めて御礼申し上げます。
「モーガン」という名前は知っていても、その若き日の苦労や、日本に来てからの歩みについては、なかなか触れる機会がありません。今日はそうした部分を生き生きと聞くことができ、私たち指定管理者として西洋館を管理している立場からも、ますます大切に守り伝えていかなければと感じました。
お時間も迫っておりますので手短にご案内いたします。皆さまのお手元に「山手お散歩ナビ」というA5サイズの小冊子をお配りしています。山手西洋館の全館を紹介しておりますので、ぜひご覧ください。
また、西洋館のファンを増やし、皆さまに気軽に足を運んでいただきたいという思いから、さまざまなイベントを開催しております。今日は大人向けの歴史講座でしたが、10月にはお子さまも参加できるハロウィンイベントを予定しています。そのほかにも、ボランティアの方々の協力を得て、日常的にコンサートなども多数行っています。
さらに、「山手通信」というリーフレットを隔月で発行し、最新の情報をお知らせしています。あわせてご覧いただければ幸いです。
第47回 歴史を生かしたまちづくりセミナー「J.H.モーガン建築の魅力」
日 時
令和7(2025)年9月28日(日)午後2時~
会 場
ベーリック・ホール(横浜市中区山手町72)
主催等
主催:公益社団法人横浜歴史資産調査会
後援:横浜市都市整備局・公益財団法人横浜市緑の協会
協力:旧モーガン邸を守る会
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