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[レポート]千代ヶ崎砲台跡の一般公開【横須賀市】



横須賀市にある国史跡東京湾要塞跡千代ヶ崎砲台跡は、第1期史跡整備工事を完了し、令和3(2021)年10月25日より土曜日・日曜日・祝日の一般公開を開始したので、見学に訪れた。築城当初の姿を良好に残し、近代日本の軍事および築城技術の様相を具体的に理解することができることから、平成27(2015)年3月10日、猿島砲台跡と合わせて、近代の軍事施設に関する遺跡としては日本で初めての国史跡の指定を受けた。指定名称は「東京湾要塞 猿島砲台跡 千代ヶ崎砲台跡」。

浦賀ドック方面から燈明堂に向かい「旧軍通り」のきつい登り坂を上り切った先に千代ヶ崎砲台跡がある。平時はこの施設に駐車場はなく、近隣の燈明堂緑地の有料駐車場が案内されているが、この公開期間中は旧軍通りの坂の途中に臨時の駐車場が設けられている。また、浦賀ドックから出るバスツアーもあるので、そちらの利用もおすすめである。



千代ヶ崎砲台跡入口の柵門は凝灰質礫岩の切石を用いた石積み擁壁が切り通し状になっている。壁面には門扉の金具の一部も残されている。

柵門を抜けると正面には高さ5mほどの土塁と堀井戸があり、その左手に見学会の受付テントが設営されている。受付の案内に従って、土塁を右手に回ると最初のガイドが待っていてくれた。ボランティアガイドが手作りのパネルを使って、千代ヶ崎砲台跡の歴史、見学内容の概要をガイダンスしてくれる。



千代ヶ崎砲台は東京湾要塞を構成した砲台のひとつで、江戸時代後期に会津藩により台場が造られた平根山に、明治25(1892)年から明治28(1895)年にかけて陸軍によって建設された。東京湾要塞の中での任務は観音崎の砲台群の側防と浦賀湾前面海域の防御で、対岸の富津元洲砲台ともに援助砲台に位置づけられていた。

千代ヶ崎砲台は、28cm榴弾砲と呼ばれる大口径の大砲が備えられた榴弾砲砲台と小口径の加農砲などが備えられた近接防御砲台で構成されていた。

榴弾砲砲台は南北に一直線に並んだ3砲座からなり、その延長線上の北側と南側にそれぞれ左翼観測所と右翼観測所が配置されていた。各砲座には28cm榴弾砲据え付けた砲床が2つ配置され、3つの砲座で合計6門の28cm榴弾砲が備えられていた。

砲座は西側に平行している塁道と地下交通路で連絡し、塁道―砲座間の地下には砲側弾薬庫、掩蔽部、貯水所などの地下施設が付帯している。今回の見学会では一番奥の第一砲座までが見学ルートとなっており、それぞれのポイントでガイドが解説がある。



最初に案内されたのは、第二貯水所。塁道の雨水を集水、濾過して生活用水を確保するための貯水所とのこと。振り返ると塁道に沿って石蓋が載せられた側溝が貯水所までつながっている。貯水所につながっている側溝は、貯水所が満水となるとオーバーフローして、今度は砲座などから流れていくる排水と一緒に排出される仕組みとなっているとのこと。上水を確保しにくい高台施設としての工夫なのだろう。井戸状になっている開口部から内部を覗かせてもらったが、ライトが当てられるとかなり大規模な地下の構造物の大きさを感じ取ることができた。

この貯水所も含めて煉瓦組積法はすべてオランダ積で、隧道内施設の前面壁と室内、交通路の脚壁では普通煉瓦、露天空間に設けられた施設の前面壁、あるいは露天空間と接する隧道の出入り口には、雨水に対する防水と帯水防止のため焼過煉瓦を用いている。



塁道を進むと今度は隧道の入口が見える。隧道を一つ抜けた先の二番目の隧道下の棲息掩蔽部を案内された。棲息掩蔽部は主に訓練時や戦時の兵員の待避所・宿舎、倉庫として使われる施設。

棲息掩蔽部を一旦出て、隣にある人一人がやっと通れる交通路を通ると、今度は棲息掩蔽部の後ろ側にある砲側弾薬庫に案内された。棲息掩蔽部と砲側弾薬庫の間には仕切り壁で仕切られた点燈室(ランプ室)がある。仕切り壁にはガラスが嵌め込まれた小窓があり、両側の棲息掩蔽部と弾薬庫を照らしていた。電気ではなくランプで灯りをとっていた当時、ランプの火で弾薬に引火しないようにするための構造とのことである。

砲側弾薬庫は28cm榴弾砲の砲弾と装薬が保管されていた。天井と床に2箇所づつ揚弾井と呼ばれる円形の縦孔があり、ここから砲座に繋がる高塁道に砲弾と装薬を供給していた。



砲側弾薬庫を出て、急な階段を登った先が砲座に繋がる高塁道になっている。高塁道では揚弾井から引き上げられた砲弾と装弾を左右に設置されたレールを使って供給する。

28cm榴弾砲の砲弾の重量は217kg。この狭い場所で人力でその砲弾を運んでいたかと思うと、その過酷さは想像を超える。

高塁道の先には砲座が見える。今回の見学会では、一番、創建時の姿を留めていると考えられている第一砲座に立ち入って見学することができた。



砲座には2つの砲床があり、ここに28cm榴弾砲が据えられていた。砲座の周りの壁部には切り込みがあるが、ここに砲弾を立てて並べたとのことである。

砲座は土塁から堀り込まれた露天になっていて、ここからは外部、つまり目標を捉えることができない。砲台の南北にあった観測所から伝声管を通じて方位・仰角など指示が伝えられ、それに合わせて発砲する仕組みとなっている。榴弾砲は大きく放物線を描いて艦船の甲板を貫いて弾薬庫や機関等を重要な部分ほ破壊する目的で運用された。残念ながら、現在その観測所の地上施設を確認することはできない。

千代ヶ崎砲台跡は、終戦後の 昭和27(1952) 年、当時の農林省が開拓者に土地を払い下 げ、養豚場としてその一部が利用された。この時期に、左翼観測所も取り壊され埋められたと考えられている。

砲座内部の見学を終え、来た道戻り、今度は土塁の上部から砲座を見る。



一時期は民地となっていた砲台跡だが、昭和35(1960) 年に海上自衛隊が用地を取得し、千代ヶ崎送信所として施設整備し、それ以降およそ半世紀にわたって運用されてきた。その時期に、第3砲座は完全に埋め立てられ、上部はテニスコートとして使われていたという。

現在は、横須賀市による発掘も第1期が完了し、砲座周りなどを転落防止の柵で囲み、全体に芝生が貼られ見学しやすく整備されていた。

残念ながらこの日は天気が良くなかったのだが、天気が良ければ、ここから東京湾の入口を一望できるという。

最後に、ここで発掘された煉瓦や、砲台跡の地形模型、歴史を紹介するパネルなどが展示されている休憩室に立ち寄って、見学を終えた。

少し行きにくい場所ではあるが、是非、浦賀ドックや猿島と合わせて一度訪れていただきたい。









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