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[歴鉄_17] 小田急デハ3000形(SE) ロマンスカー | 海老名市・ロマンスカーミュージアム

更新日:2021年6月20日



ロマンスカーミュージアムの入口からエスカレーターを下って、モハ1型が展示されているヒストリーギャラリーを過ぎた先に、車庫のような雰囲気の1階車両展示室「ロマンスカーギャラリー」がある。「ロマンスカーギャラリー」には歴代のロマンスカー5車種が常設展示されている。その中でも一番古い歴史を持つのが"Super Express"略してSEの愛称を持つロマンスカー「小田急デハ3000形」である。

戦時統制下の東京急行電鉄(大東急)から昭和23(1948)年、京急・京王とともに分離、発足した小田急では「新宿と小田原を60分で結ぶ」という将来目標を設定し、車両の開発が進められていた。同時期、国鉄の研究所でも航空技術を鉄道に応用した超高速車両(後の新幹線)の研究が進められており、この国鉄との共同開発により開発されたのが、この「小田急デハ3000形」である。

当時、「高速走行のためには大出力の主電動機を使用して、粘着性能を稼ぐために車体も重く頑丈にする」ということが常識とされていた中で、高速化のために施設を増強させる投資ができない会社の事情も相まって、結果として軽量化による高速化を目指した開発が進められた。この時、国鉄の研究所に身お置き、軽量化による高速化が可能なことを研究でまとめたのは、日本海軍航空技術廠で陸上爆撃機「銀河」、ロケット特攻機「桜花」などの機体設計を担当し、後に新幹線車輌の設計者となる三木忠直(1909 - 2005)であった。

昭和32(1957)年に実施された東海道本線での高速試験において、当時の狭軌鉄道における世界最高速度記録となる145km/hを樹立している。この実験結果は、その後の国鉄の電車特急開発のデータとして提供されたことから「新幹線のルーツ」とも呼ばれている。

前述のとおり、軽量化による高速化を目指した結果、頭部が流線型となった低重心のフォルムとなっている。



後のロマンスカーにも引き継がれていく、バーミリオンオレンジ・白・グレーの特徴的なカラーリングは、洋画家の宮永岳彦(1919 - 1987)によるものである。

宮永は、二度の兵役から復員した昭和21(1946)年、実家のある秦野市名古木に帰り、アトリエを構え、松坂屋百貨店銀座店宣伝部に勤務しながら、15年間にわたり創作活動を続けた。その後、東京都新宿に居を移し、昭和54(1979)年に日本芸術院賞を受賞、昭和61(1986)年には二紀会理事長に就任、美人画を中心とした油絵はもちろんのこと、雑誌の表紙、商業広告のポスター、書籍等の表紙画と装丁、挿絵、水墨画に及ぶ異色というべき多彩さで作品を残し、それぞれ第一級の先駆的業績をあげたが、中でも誰もが知る作品は、作品がある中でも最も有名なのは、あの「ぺんてるくれよん」の箱ではないだろうか。

流線型の先頭形状とカラーリングはウルトラマンを彷彿とさせるが、ウルトラマンの登場は昭和41(1966)年であり、昭和32(1957)年に営業運行を開始している「小田急デハ3000型」の方が10年近く早く世に出ていることになる。ウルトラマンを制作していた円谷プロダクション(当時は「円谷特技プロダクション」)は小田急線「成城学園前駅」「祖師ヶ谷大蔵駅」の間で、デザインを担当していたスタッフが影響を受けていたのかもしれない。

まだほとんどの電車が四角い箱だった時代に現れた斬新なスタイルと狭軌最高速を記録した性能は、マスコミや鉄道ファンの注目の的となり、それがきっかけとなって鉄道友の会ではブルーリボン賞の制度が創設され、昭和33(1958)年には第1回ブルーリボン賞を授与された。



ロマンスカーミュージアムに展示されているデハ3000形の車輌は、日本車輌製造製のデハ3021・デハ3022・デハ3025の3輌である。

昭和32(1957)年5月20日の3001編成(8輌)に続き、6月上旬に当初8輌編成で入線、7月6日から箱根特急において営業運行が開始された。営業開始後、すぐに夏休みを迎えたこともあり、連日満席となる好成績となった。

昭和42(1967)年に箱根特急が全て「デハ3100形(NSE)」で運用できるようになると、「デハ3000形(SE)」は江ノ島線の特急「えのしま」や、昭和41(1966)年6月に新設された途中駅停車の特急「さがみ」に運用されるようになった。

さらに昭和43(1968)年、御殿場線の電化にともない「デハ3000形(SE)」が連絡準急行(1968年10月以降は連絡急行)「あさぎり」としても運用されるようになり、5輌編成に再編成された。

3021編成は、中間車の3033(→3053)・3034(→3055)・3035(→3052)号車が編成から外され、3036(→3033)・3037(→3034)・3038(→3035)号車がそれぞれ番号を引き継いだ。編成が短くなったことから "Short Super Express" (略して「SSE車」)とも称されるようになった。



後継車の登場により、徐々に定期運行が少なくなり、平成3(1991)年3月が最後の定期運行となった。定期運用から離脱した後もしばらくは波動輸送用として残されていたが、平成4(1992)年3月にさよなら運転が行われた後に全車両が廃車となった。

当初は保存の計画はなかったが、日本の電車の発達史における一大エポックメーカーとして、また産業考古学上も重要なものと認められ、3021編成が永久保存することとなった。平成5(1993)年には新宿側の先頭部分(デハ3021)を原型に復元、デハ3022は塗装変更され海老名検車区の保存用車庫に納められた。令和元(2019)年に小田急電鉄から車両基地のスペース確保の観点から中間車デハ3023・2024の2両が解体された。

この時、残されたデハ3021・3022・3025が、令和3(2021)年にオープンしたロマンスカーミュージアムに常設展示されたのである。

新造時に復元された3021の列車名表示は「乙女」。反対側の先頭車輌となる3025の列車名表示は「あさぎり」。御殿場線乗り入れに伴って愛称表示器がNSEと同様の台形になるなどマイナーチェンジが施された姿を留めている。



展示車輌は内部も見学できるようになっている。座席は、回転式クロスシートでロマンスカーの名前の由来にもなった二人がけシートで、2座席の間に肘掛はない。

昭和35(1960)年には、昭和35(1960)年の箱根ロープウェイ全線開業により観光ルート「箱根ゴールデンコース」が開通し、ますます箱根観光は活況を呈するようになり、「デハ3000形」はその主人公であった。

神奈川を代表する観光地である箱根。戦後の箱根の観光地開発と輸送技術の発展を知る上でも貴重な歴史資産である。





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