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[レポート]浦賀レンガドック一般公開【横須賀集客促進・魅力発信実行委員会】

更新日:2021年11月2日



令和3(2021)年10月23日(土)~2022年1月23日(日)の土・日曜日、祝日(11月3日、1月1日・2日を除く)の日程で一般公開されている浦賀ドックの見学ツアーに参加した。

一般公開日にはドック上部からは自由に無料で見ることもできるが、ドックの底部に立ち入るにはガイド付きの見学ツアーに参加する必要がある。

現存している近代の煉瓦造ドックは世界でも5個所、日本においてはこの浦賀ドックと川間ドックの2箇所だけであり、川間ドックはマリーナ施設の一部として恒常的に注水状態となっているため、ドライの状態で底部に降り立つことができるのは、この浦賀ドックのみであり、この貴重な機会を逃すまいとツアーに申し込むことにした。



チケット売場では、【浦賀レンガドック見学ツアー】のほかにも浦賀を代表する2つの歴史スポットをバス移動・ガイド付きで案内する【「浦賀レンガドック」と「千代ヶ崎砲台跡」をめぐるガイドツアー】、浦賀の町を船の上から見ることができる、船内ガイド付きの約30分クルーズ【URAGA開国クルーズ】が売られていた。ツアーの運営は猿島航路、YOKOSUKA軍港めぐりなど、横須賀の海を舞台に各種クルーズを運航している株式会社トライアングル。

今回は浦賀ドックをしっかり見ようと【浦賀レンガドック見学ツアー】に申し込んだが、専用バスとバス停が素敵な【「浦賀レンガドック」と「千代ヶ崎砲台跡」をめぐるガイドツアー】も魅力的だ。千代ヶ崎砲台までの移動手段がない方にはおすすめである。


見学会の会場となっているのは、令和3(2021)年3月に住友重機械工業株式会社から横須賀市に対し無償で寄附された浦賀レンガドック周辺部のエリア。ドックを一番奥に見て、手前から駐車場、バス停、キッチンカー、チケット売場、休憩テント、乗船場が並んでいて、ドック挟んでさらに奥には「レンガドック活用センター」と呼ばれる建物がある。ガイドツアーの集合時間までまだ時間があったので、ひとまずその「レンガドック活用センター」を見学した。

センター内には、「浦賀船渠地鎮祭起工式之幣(幣串)」や工場の看板、社旗など浦賀船渠や住友重機械工業に関する展示物、大ハンマーやレンチ、リベットガンなど実際にドックで使われていた工具の数々、浦賀ドックの歴史を紹介するパネルなどが並べられていて、ツアーの事前学習にちょうど良い。



ツアー出発5分前にチケット売場横の集合場所に行くと、参加者約15名が集まっていた。ガイドは株式会社トライアングルが独自に育成する専門ガイド「TOKYO BAY Navigator (TBN)」。猿島などでも丁寧でわかりやすい解説で評判が良いので期待できる。ツアーガイドからイヤホンレシーバーが渡され、スイッチを入れるとガイドがクリアに耳に届いた。ガイドの簡単な自己紹介の後、まずは目の前の7tクレーンの前に案内された。

クレーンの台座部には「浦賀船渠 昭和20年6月 7T」と表示ある。浦賀ドックは、明治32(1899)年に竣工した、民間では最初期のドライドックである。昭和44(1969)年に住友重機械工業株式会社の浦賀工場となり、創業から1世紀にわたり、約1,000隻にのぼる艦船等を建造・修理してきた。この「浦賀船渠」という表示はその名残と説明があった。



浦賀工場は平成15(2003)年に閉鎖され、造船所の役割を終えた。閉鎖後も何度かのイベント時にはその内部が公開されることもあったが、令和3(2021)年、全敷地約99,000平方メートルのうち、レンガドックとその周辺の約27,000平方メートルが横須賀市寄付されたことで、今回、社会実験として一般に公開することができるようになったとのことである。

少し移動して渠首部へ。渠首には修理する艦船をセンターに据えるため簡易な照準が据えられていた。このような簡単なもので大型の艦船がぴったりと中央に据えられたとは驚きである。



渠首部を通って、反対側に回るとドックの全容が見えてくる。全長約180m、幅28.2m、深さ約10m。創建時の規模は全長約144m、全幅28.2m、深さ8.2m。船渠側面・底部には愛知県安城市の岡田煉瓦製作所より購入した耐久性の強い焼きすぎ煉瓦が約130万個、裏込めには久比里の業者から購入した赤煉瓦が約85万個使用されている。国内で築造された初期のドライドックはほとんどが石造であるが、浦賀ドックが煉瓦造となったのは、材料費が石より安かったから、また、煉瓦がフランス積みなのは、設計を担当していた杉浦栄次郎が横須賀造船所でフランスの技術を習得していたから、とも言われているとのこと。

一通りの解説を受けた後、いよいよ底部に降りていく。



降りていく途中では、煉瓦や石を間近にみることができる。

底部につくと、水を抜いた状態の時に入渠している艦船を載せる盤木が整然と並べられている。この盤木は、このドックで最後に整備された東京湾フェリーの「しらはま丸」を支えていた配置のままとのこと。現在の底部は昭和59(1984)年の拡張工事の際に、創建時の渠底から約2mほど掘り下げられたものである。この拡張工事では、渠尾部・海側にも約34m拡張され、それまで使われていた扉船方式から、前倒式フラップゲートに変更されている。

改めて底部に降りると、このドックの大きさを実感することができる。時間にして5分程度であろうか。わずかな時間だが、十分に堪能することができた。



再びドックの上部に戻り、老朽化のために撤去された20tハンマーヘッドクレーンの痕跡として残されている8m幅のレール、ウィンチとキャプスタンなどの解説を聴きながら、今度は渠尾部のフラップゲートの上を通る。これも貴重な体験である。このフラップゲートは重心が海側に寄せられおり、ドック内に海水を入れてドック側と海側からの水圧を等しくして、ゲート内にも海水を入れ、ウィンチのワイヤーを緩めると自然と海側に倒れていく仕組みになっている。



フラップゲートを渡り、乗船場の前を過ぎると、ドック内の海水を注排水するためのポンプが見える。ここには以前、旧ポンプ室の建屋があったが既に撤去されている。

ポンプ場の見学を終え、ドックの周辺部、船台や艤装岸壁の案内があったところで、ガイドツアーは終了。全体の時間で約30分。日本のドックの歴史を肌で感じることができる大満足の内容であった。



浦賀での造船の歴史は嘉永6年(1853)年のペリー来航までさかのぼる。この時、江戸幕府は「大船建造の禁」を解き浦賀造船所を設置、浦賀奉行所与力・中島三郎助らによって国産初の洋式帆走軍艦「鳳凰丸」を建造した。また安政6(1859)年には日本初のドライドックが完成し、アメリカへ向かう咸臨丸の整備が行われていると言われている。

しかし、横須賀港の製鉄所(後の横須賀造船所、横須賀海軍工廠)の建設により、艦艇建造の中心は横須賀へ移っていったため、浦賀造船所は明治9(1876)年に閉鎖された。

しかし、この浦賀造船所の造営の立役者であった中島三郎助は、榎本武揚ら旧幕府軍が明治政府に抵抗した「五稜郭の戦い(箱館戦争)」に加わり戦死する。

明治24(1891)年、中島の23回忌に愛宕山公園に招魂碑が建立された。碑文は榎本武揚によるもの。その除幕式で造船所建設が提唱され、賛同した榎本らによって創立されたのが浦賀船渠株式会社だった。造船所建設は榎本にとって中島への供養でもあったといえる。

初期の造船所の歴史はこのほかにも、渋沢栄一、淺野総一郎と登場人物が豪華である。日本の歴史と密接に関係する浦賀ドックの歴史を肌で感じることができる見学ツアー。おすすめである。








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