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[コラム]横浜山手 外国人居留地時代の記憶を辿って【THE HERITAGE TIMES YOKOHAMA KANAGAWA】



山手西洋館や教会、ミッションスクール等が放つ異国情緒に惹かれ、多くの来訪者が訪れる横浜市山手地区。かつては国内最大規模の外国人居留地として、多くの外国人が生活していた「外国人居留地」(以降「山手居留地」という)の名前を知る方は多いだろう。明治初頭から大正半ばにかけて、数々の西洋館のほか、劇場(ゲーテ座)、病院(アメリカ海軍病院、イギリス海軍病院など)、教会等が建ち並んだ山手の街並みは、古写真等の資料で見ると、日本の中の外国と言っても過言ではない雰囲気を持っていたようだ。しかし、そんな華やかな街並みも、大正12(1923)年に発生した関東大震災により壊滅してしまうのである。震災前の山手で生活したO.M.プールは、著書『旧き横浜の壊滅』の中で山手居留地の被害状況を「かつての山手はどこへ行ってしまったろう。昔から見なれた景色はもちろん、昨日ほうりだされた残骸すら見当たらず、そのかわりそこには、いまは枯れ果てて晩秋の葉の落ちた状態になった、それでいてどこか複雑な感じのする木立の数々以外は何もなかった。(中略)しかし家は一軒も見えなかった。ただ、ところどころに、無分別なピクニックの一行が残していったくずもの同様、無意味な砕けた石ころのかたまりがあるだけであった。」と述べており、被害の大きさが伺える。

現在も異国情緒を放つ山手西洋館に代表される洋館群は、関東大震災直後から戦前にかけて建設されたものである。しかし、山手居留地時代の記憶は現在も各所に遺っている。今回は、そんな山手居留地時代の記憶を今に留めるポイントを紹介したい。


1 境界石(居留地境界石・敷地境界石)


山手十番館前に移設保存されている居留地境界石


慶応2(1866)年の横浜大火を経て幕府と各国政府との間で締結された「横浜居留地改造及競馬場墓地等約書」に基づき、翌年には山手地区の土地競売が始まる。この際、「外国人居留地」と「日本人居住地」の境を示す標石として設置されたのが「居留地境界石」、各敷地の境界として設置された標石が「敷地境界石」である。前者は、居留地撤廃と共にその役目を終え、関東大震災やその後の土地整理等から数を減らしてしまったが、表面に刻まれた「居留地界」の文字は、山手居留地があったことを示す貴重な歴史資産であると言えよう。山手十番館のレストラン前と隣接する山手ROCHEの庭には、かつての居留地境界線上から移設された「居留地境界石」の現物が保存されている。


山手75番地敷地境界石


一方で「敷地境界石」の多くは、現在も敷地境界を示す標石として使用されているものも多く、随所にその存在を確認することができる。これは、山手地区の敷地割が明治初頭から大きく変化していないのも影響していると考えられる。なお、これらの標石は、同じく外国人居留地が設置された長崎や神戸でも確認できる。


2 ブラフ積み擁壁


谷戸坂脇のブラフ積み擁壁


山手地区は小高い丘の上に位置し急斜面も多いため、居留地を整備していく過程では合わせて擁壁も整備する必要があった。この時造られた擁壁は、房州石等を細長く切り出し、短手と長手を交互に並べて積んでいくフランス積みと呼ばれる煉瓦の積み方が採用された。横浜だけでなく各地に拡がった積み方ではあるが、横浜山手で顕著に見られたことから切り立った崖の意を持ち、横浜山手を指す「ブラフ」という愛称を付けて「ブラフ積み」擁壁と呼ばれている。今も山手地区の各所で確認できるが、特に綺麗に遺っているのは、谷戸坂側の時間貸し駐車場からフランス山公園下にかけての一帯である。所々黒くなっているのは、関東大震災時に発生した火災の痕跡とされている。また、横浜地方気象台に隣接するブラフ99ガーデンには、「ブラフ積み」の積み方が分かるように一部見せ方を工夫して遺している箇所があるので、是非現地で確認いただきたい。


ブラフ99ガーデン脇ブラフ積み擁壁の構造が分かる一画


3 ブラフ溝


フェリス女学院大学脇のブラフ積み擁壁とブラフ溝


「ブラフ」溝とは、「ブラフ積み」擁壁と同様に、「ブラフ」の愛称が付けられた山手居留地時代の排水用の側溝である。こちらもU字やL字側溝等の普及に伴い数を減らしているが、フェリス女学院から山手公園に続く通りの一部など、「ブラフ積み」擁壁とセットで遺っている場所もある。横浜よりも早くに居留地が整備された長崎では、板状の石をV字型に組み合わせた側溝が使われていたが、横浜では板状の石を掘って湾曲させ、2枚を組み合わせることでU字型に近い形にするよう工夫されており、居留地整備の経験の積み重ねを知ることのできる意味でも貴重な遺構である。


元町公園のブラフ溝モニュメント


4 煉瓦井戸と汲上用風車の煉瓦基礎遺構


フランス山公園内の煉瓦井戸遺構


高台にある山手居留地に水道が整備されたのは明治20(1887)年の近代水道開通に遅れること凡そ14年の明治34(1901)年に入ってからのことである。それまで山手居留地の生活用水は井戸に頼っていた。この井戸からの汲み上げに風車の動力を利用してようで、フランス山公園からみなとの見える丘公園に向かう途中の散策路には、風車の煉瓦基礎遺構や煉瓦井戸が保存されている。


港の見える丘公園(フランス山地区)内煉瓦井戸遺構脇の汲上げ風車煉瓦基礎遺構


5 ジェラール水屋敷地下貯水槽遺構


ジェラール水屋敷地下貯水槽遺構(国登録有形文化財)


横浜に居留したフランス人のジェラールが良質な湧水を船舶に供給する給水業のための造った煉瓦造の貯水施設である。長崎県立大学附属図書館が所蔵する古写真を見ると外国人居留地が整備される前にはこの辺りは棚田となっていたようなので、湧き水があったことも頷ける。元町公園の飛び地として整備・公開されており、その歴史的価値が評価され、国の有形文化財にも登録されている。貯水槽内には、現在も湧き出で水が流れ込んでおり、山手居留地の歴史に触れることのできる貴重な遺構となっている。


6 ヒマラヤスギ


山手公園内のヒマラヤスギ(横浜市指定名木古木)


明治時代初期、横浜の外国人居留地に住んでいた英国人ヘンリー・ブルックは、明治12(1879)年、インドのカルカッタから種子を輸入し、居留地に故郷イギリスの景色を再現しようと、山手一帯に植えたと言われている。その経緯から山手では「ブルーク松」と呼ばれ親しまれてきたが、震災による倒木、宅地化等によりその多くが姿を消した。

現在、山手町では、山手公園(13本)、フェリス女学院大学(3本)、元街小学校、フェリス女学院中学・高校、横浜ユニオン教会(各1本)が横浜市の名木古木として指定されており、往時の姿を偲ぶことができる。


フェリス女学院中・高等学校内のヒマラヤスギ(横浜市指定名木古木)


山手西洋館等と異なり、こうした居留地時代の記憶は残念ながら見過ごされがちである。しかし、関東大震災を経験した山手地区内で最も往時の歴史を語るのは、こうした施設なのではないだろうか。山手散策の際は、山手西洋館だけではなく、こうした居留地の痕跡も訪ねて往時に想いを馳せるのも素敵ではないだろうか。なお、関連記事として、[コラム]発見された近代遺構も合わせて読んでいただきたい。


<参考文献>

  • 『古き横浜の壊滅―アメリカ人の震災体験』 , 1976 , 有隣新書 , O.M.プール著 , 金井円訳

  • 『横濱山手変遷誌』 , 1980 , 山手資料館刊 , 小野寺篤著

  • 『山手地区近代建築資産現況調査報告書(2)-横浜の近代建築資産の保存・活用によるまちの魅力づくり』 , 2013 , (一社)横浜歴史資産調査会

  • 『横浜山手 横浜山手洋館群保存対策調査報告書』 , 1987 , 横浜市教育委員会

  • 『横浜山手公園物語 公園・テニス・ヒマラヤスギ』 , 2004 , 鳴海正泰著 , 横浜山手・テニス発祥記念館編

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