横浜・三溪園では観蓮会の時期に合わせて、敷地内の歴史的建造物「鶴翔閣」の特別公開を行なっている。[THE HERITAGE TIMES YOKOHAMA KANAGAWA]ではその様子をレポートする。
鶴翔閣 は明治35(1902)年、三溪園の創設者、原三溪が自らの住まいとして建て、以後20年にわたる三溪園造成の足がかりとなった。延べ床面積約950㎡と三溪園にある歴史的建造物のなかでも際立って大きい建造物であり、その名称は鶴が飛翔する印象の外観に由来するといわれる。その大きく広がる茅葺き屋根の外観は大池を挟んだ対岸からも確認できる。
平成10 (1998年)年にはその近代和風建築としての建築的、歴史的価値が評価され横浜市有形文化財に指定された。
震災・戦災などを経て多くの改変がなさたが、平成10 (1998年)年から平成12 (2000)年にかけて修復工事を行い、建築当初の姿に復原されました。
鶴翔閣はまた、横山大観や前田青邨といった日本画家たちが滞在し絵を制作するなど、日本の近代文化の発展にも関わった文化サロンとしての役割も果たした場所である。哲学者の和辻哲郎が後に名著「古寺巡礼」として結実する京都・奈良への旅をここから出発したことが知られている。
鶴翔閣は居住用の棟のほか、来客用など様々な機能の棟からなっている。特に豪商の住まいながら、建物には装飾がほとんどなく、非常に簡素なものとなっている。そのかわり、各部屋の天井廻り縁に飾り釘があったことから、かつては書画や影刻などの美術品を飾って華やかであったと考えられる。内部は天井が高いことが印象的であるが、絵画を飾り、テーブル・椅子座という洋風の生活であったことに起因していると思われる。
早速、通常は貸出以外非公開とされている内部に玄関から入る。玄関の先の左手が広間になっている。
「広間」
「広間」は接客の部屋として使われ、画家や研究者が三溪蒐集の美術品を鑑賞し、美術論議にあたって芸術を深めた場所。南面する開口部から明るい日差しが差し込む。
「楽室棟」
さらに開口部が連なっていて、南東からの光が充分に入るようにつくられている。家族皆が集まって談笑や食事、音楽鑑賞をした部屋。
「茶の間棟」
「楽室棟」から「書斎棟」に繋がる三間の和室。原家の人々が寝室や茶の間として使用。部屋の近くに便所と浴室、仏間や洗面所があって、茶の間棟が基本的な通常の生活空間だった。
現在の浴室は、隣の倉を改修した後につくられたもので、その当時の姿に復原した。平成の整備工事前は檜の浴槽を使用していたが、床の解体工事中に焚き口、煙道が発見され、また敷地内にあった釜の大きさと合致したので、五右衛門風呂であったことが分かった。床、内壁は人造石研ぎ出し仕上げ。意匠的には白雲邸にある五右衛門風呂を参考にしている。
「書斎棟」
原三溪の寝室および書斎に使われていた。「茶の間棟」の奥に四段の階段で繋がるこの棟は、床が茶の間棟より約2尺8寸(85cm)高く造られている。当初は他の建物と同じ床の高さで計画され、後に現在の高さに変更されたものと考えられる。
建物全体の見え方、室内から池への眺望を考慮したものと推察される室内は当初畳敷きの和室だったと思われるが、ある時期に板の間とし、後にマントルピース(飾りの暖炉)など洋風の室内装置を備えた。
「蔵」
大正10年に三溪園内苑にある白雲邸の蔵を新設するまで、三溪が蒐集した美術品を収蔵していた。その後は衣服等を保管する倉庫として使用された。
「客間棟」
来客の居室。宿泊用や画家の制作の場として使われた三間の和室。
各棟の一部は立入禁止となっているが、主要な場所は自由に立ち入りできるようになっており、歩いて回るだけではなく、ゆったりと座りながら、往時の姿を思い起こすことができる。
一つ一つ見ていくと時間があっという間に過ぎる。横浜の近代化を支えた豪商の生活を体感的に知ることができる貴重な機会となっているので、是非訪れてほしい。
特別公開の内部の他、鶴翔閣はその外部にも近代建築ならではの遺構があるので、合わせてご覧いただきたい。
「ボイラー室」
すでに内部のボイラーは撤去されているが、煙突、高架水槽や床に設置されたボイラーの痕跡、配管などから、かってボイラー室であったことが判っている。ボイラーでお湯を沸かし、洗面所などに給湯していたと思われる。
「煙道および排煙施設」
ボイラー室から出た煙を右手丘の頂部まで導いて、排煙するための施設。一部破損したり失われたりしているが、排煙管や煉瓦造の煙道の基部が残されており、当時の姿をおおむね知ることができる。現在展示されている煙道の基部は、崖の整備の際に取外し、移設したもの。
「変電所」
内部には、分電盤などの配電設備がある。ります。変圧器に大正11(1922)年の表示があり、建物もその当時の建設であると考えられている。配電設備をともなうこの種の建物の現存例は全国的にも数が少なく、また旧原家住宅で営まれた生活の様相を示すものとして貴重な存在であり、平成の改修工事の際、文化財に追加指定された。
また、園内では現在、早朝観蓮会(午前7時から開園。8月12日まで)や「パネル展「三溪園の古建築修理-月華殿と旧東慶寺仏殿―」も開催中なのでそちらにも是非足を運んでいただきたい。
パネル展「三溪園の古建築修理-月華殿と旧東慶寺仏殿―」
約3年半にわたる修理工事を終えた、月華殿と旧東慶寺仏殿の修理過程について、どこをどのように修理したのか、写真とイラストを交えて大変解りやすく紹介している。
特に、どのような職人がどのような作業を、どんな工夫を凝らして携わったのかを紹介している部分は他の展示ではなかなか見られないが、文化財保存技術の継承という視点からも見逃せない展示である。
パネル展に合わせて、月華殿と旧東慶寺仏殿にも是非訪れていただきたい。
「月華殿」
月華殿は、慶長8(1603)年に徳川家康が京都伏見城内に建てた諸大名の控えの間であった、と伝えられている。
大正7 (1918)年に京都・宇治の三室戸寺金蔵院から付属していた茶室(現在の春草廬)とともに三溪園へ移築された。移築に際しては、運搬のために解体した部材を一本ずつ丁寧に新しい晒し布で巻いて運んだといわれている。
平面は「竹の間」、「檜扇の間」及び三面の縁で構成され、屋根は一重、入母屋造、檜皮葺、庇柿葺であり、昭和6(1931)年に国重要文化財に指定された。
「旧東慶寺仏殿」
「旧東慶寺仏殿」は縁切寺・駆け込み寺の名で知られる鎌倉・東慶寺にあった禅宗様の建物で、江戸時代の初めごろに造られたものと考えられている。
東慶寺は明治時代以降衰退し、建物の維持が困難になっており、これを憂えた原三溪が明治40(1907)年に三溪園に移築した。この時、三溪によって建物内に納められた棟札には、禅師説法の道場にするため、そして三溪園の鎮護とするために移築したことが書かれていたいう。
桁行三間、梁間三間で、屋根は一重もこし付、寄棟造、茅葺、もこし柿葺となっており、月華殿と同じく、昭和6(1931)年に国の重要文化財に指定された。
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