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[レポート]山城ガールむつみ「三浦一族ゆかりの城 〜伊勢宗瑞の来襲!〜」【お城EXPO2025】


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日時:令和7(2025)年12月20日(土) 午前11時30分から正午

場所:お城EXPO2025(パシフィコ横浜ノース)EXPOサロン2F-10(G216)


はじめに

皆様、お話を始めさせていただきます。私は「山城ガールむつみ」という名前で、歴史や山城の魅力を伝える活動をしております。「歴史を楽しく、面白く」をモットーに、地域の魅力を引き出すコンサルティングなどのお仕事をさせていただいています。私は横須賀市の出身なのですが、横須賀といえば三浦半島の在地一族、三浦一族です。全国どこへ行っても歴史は面白いのですが、やはり自分の出身である三浦一族をしっかりPRしたいと思い、日々活動しております。本日は30分という短い時間ですが、戦国期の三浦半島で起きた戦いや事件をご紹介します。

お城の紹介もがっちりしたいところですが、今日はそれ以上に「三浦一族が日本の歴史にどれほど大きな足跡を残したか」という物語を楽しんで帰っていただければと思います。


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全国に広がる三浦一族

三浦半島は海に囲まれた土地です。現在、逗子、葉山、油壺などにはお洒落なマリーナがありますが、実は今、船が停まっている場所のほぼすべてが、中世からの三浦一族の港だった場所なんです。そうしたことも思い浮かべながら聴いていただきたいと思います。

数年前の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で山本耕史さんが三浦義村を演じ、一躍有名になりましたね。三浦一族は鎌倉幕府の設立に尽力し、その功績で北は青森から南は九州、四国へと領地を広げました。全国各地に今も続く名族です。

本家は鎌倉時代中頃の宝治合戦(1247年)で一度滅びますが、分家の佐原氏が名跡を継ぎ、以来450年にわたって三浦半島を統治し続けました。


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三浦一族滅亡へのカウントダウン

面白い縁があります。北条早雲の出身地である岡山県井原市(高越城)からもお声がけいただき、私は今、向こうで早雲のPRもしています。今日、会場の後ろには井原市の市長さんも来てくださっています。500年前に滅ぼした側と滅ぼされた側が、今こうして繋がっている。これも歴史の面白さですね。

1247年の宝治合戦によって、三浦義村の息子・安村が率いる三浦本家は北条氏に敗れ、一度は滅亡の時を迎えます。しかし、分家の佐原家がその名跡を継ぎ、血脈を未来へと繋いでいくことになります。なぜ佐原家だけが生き残れたのか、その鍵を握るのが、三浦義村の娘であり、のちに「矢部禅尼(やべぜんに)」と呼ばれた一人の女性の存在です。

彼女はもともと、鎌倉幕府の3代執権である北条泰時に嫁いでいました。泰時との間に生まれた嫡男は早くに亡くなってしまいますが、彼女は4代執権・経時や5代執権・時頼にとっては祖母にあたる、幕府の中枢において極めて格の高い人物だったのです。その後、彼女は泰時と離縁して分家の佐原盛連と再婚しますが、この再婚こそが一族の運命を左右しました。当時の優秀な家柄の女性は、北条家との繋がりやその血統の格を求められ、複数の家から望まれる存在でした。彼女が佐原家へ嫁ぎ、新たに子供たちを産んだことで、佐原家は北条家と非常に近い親族関係を持つことになります。そして運命の宝治合戦の際、彼女の産んだ佐原の息子たちは、実家である三浦の本家側にはつかず、北条方として戦う道を選びました。この決断によって、佐原家は滅亡を免れ、戦国時代まで続く三浦の血を存続させることができたのです。この矢部禅尼の子孫たちは全国へと広がり、真ん中の息子である森時が相模三浦の名跡を継承したほか、他の兄弟も会津の戦国大名となる蘆名(あしな)氏や、岡山県の美作(みまさか)三浦氏へと発展していきました。三浦一族が全国的な名族としてその名を残せた背景には、こうした幕府中枢をめぐる複雑な婚姻関係と、それによる「生き残り」のストーリーがあったのです。


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権現山城の戦い

伊勢宗瑞、のちの北条早雲という人物は、もともとは室町幕府の命令を受ける形で、段階的に東へと進出してきました。当初は今川家の内紛(家督争い)の調停に関わり、続いて伊豆の韮山において、堀越公方の「足利茶々丸」を追放して伊豆を平定します。さらに小田原へと勢力を広げ、三浦半島を伺うようになるのですが、ここまでは一貫して幕府の意向を汲んだ動きでした。しかし、1510年頃を境に、彼の動きは大きく変化します。室町幕府の求心力が低下し、関東の旧勢力である山内・扇谷の両上杉氏が衰退していく中で、宗瑞は幕府の命令に基づく公的な役目ではなく、自らの勢力を拡大するための独自の軍事行動へと切り替えていったのです。

まずは「権現山(ごんげんやま)城」です。横浜駅北口から徒歩5分ほどの場所にあります。当時は海に突き出した「海城」のようなお城でした。権現山城は、もともと扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の家臣である上田氏が守っていたお城でした。しかし、伊勢宗瑞(早雲)による巧みな寝返り工作の結果、守備役の上田氏が宗瑞方へと寝返ってしまいます。この城は、当時の交通の要所である港と道路を同時に管理する非常に重要な拠点でした。ここを宗瑞に奪われては大変だということで、関東管領の上杉氏を中心とした連合軍が、城を奪還するために総力を挙げて攻め寄せてくることになります。こうして権現山城は、北条と上杉が激突する大規模な決戦の舞台となったのです。結局、この戦いは上杉連合軍が勝利し、宗瑞は権現山城を獲ることに失敗します。



岡崎城と住吉城の落城

次に宗瑞は、三浦道寸(どうすん)が守る伊勢原の「岡崎城」を落とします。道寸は「住吉城」へ逃れますが、ここも宗瑞に追い詰められ、さらに新井城に逃れます。住吉城では道寸の弟・道香(どうこう)が半年間奮戦しましたが、最後は近くの延命寺で自害しました。

三浦道寸が守っていた岡崎城は、現在は「無量寺」というお寺になっています。ここには、戦国期ならではの「連郭式(れんかくしき)」というお城の姿が、今もお寺の裏山にしっかりと残っています。私有地であるため、一見すると「自由に入って見学するのは難しいかな」という印象を持たれるかもしれませんが、実はお寺の方に声をかければ見学させていただけるんです。



住吉城がどこにあるかと言いますと、現在の「逗子マリーナ」のすぐそばです。マリーナの隣にある小高い丘がその跡地なのですが、今は高級住宅街や立派なマンションが立ち並んでいて、まるで見栄えのする現代のお城が建っているかのような雰囲気になっています。ここはかつて、三浦一族が誇る最強の水軍、いわゆる「海賊」たちの拠点だった場所なのです。

現在は周辺が埋め立てられていますが、昭和30年代の写真を見ると、かつての姿がよく分かります。埋め立て前は、城のすぐ下が海面に面しており、船を直接横付けできるような典型的な「海城(うみじろ)」の形をしていました。崖には海食洞のような穴が開いているのですが、地元ではそこが「軍船を隠しておく場所だった」という伝承も残っています。

この住吉城には、当主・三浦道寸の弟である道香(どうこう)が入り、半年間にわたって懸命に籠城を続けました。



現在の住吉城跡は、周囲の宅地開発が進んでいるため、いわゆる「山城」としての雰囲気を存分に味わうのは少し難しいかもしれません。しかし、その山頂には城名の由来となった住吉神社が今も祀られています。境内には「住吉城」と記された看板も立てられており、かつて物見台(見張り台)があったと思われる高台からは、正面に江の島を捉え、相模湾を一望することができます。

この配置は、海上の監視という軍事的な役割はもちろん、江の島を正面に据えることで海上安全を祈願するという、宗教的な意図も込められていたと考えられます。城跡を訪れた際は、ぜひ戦いの痕跡だけでなく、当時の場内にあった祈りの名残も感じてみてください。

そして、この城で半年間の激戦を繰り広げた三浦道香(どうこう)たちは、最期は逗子駅近くにある「延命寺」へと逃れ、その境内で自害したと伝えられています。延命寺には道香や重臣たちの供養塔が残っており、看板も立てられています。住吉城とこの延命寺をセットで巡ることで、三浦一族がたどった悲劇のストーリーをより深く感じていただけるはずです。



鐙摺城

三浦一族にとって戦国期の本城と考えられているのが、この新井城(あらいじょう)です。三浦半島西側の沿岸部には多くのお城が点在しています。先ほどお話しした逗子の住吉城をはじめ、葉山の鐙摺(あぶずり)城、横須賀の長井城といった城が海を通じて連携し、本城である新井城へと続く「船のライン」を形成していたのではないかと考えられます。こうした海沿いの繋がりを意識して巡ってみるのも、非常に面白い視点だと思います。

住吉城の南に位置する葉山の「鐙摺城」を紹介します。「鐙摺」という名前の由来については、鎌倉時代に源頼朝がお月見に訪れた際、あまりの急坂に「馬の鐙(あぶみ)が摺れてしまうほどだ、これほどの要害の地はない」と感嘆したという伝承が残っています。規模こそ小さいですが、目の前には大海原が広がり、海の見張りには最適な場所ですので、ぜひ一度足を運んでみてください。



新井城の戦い

道寸はさらに三浦半島の突端、新井城へと撤退します。ここは驚くべき地形で、付け根を分断すれば独立した島になる「岬城」です。新井城周辺には、敵が来ると橋を引いて遮断する 「内引き橋」「外引き橋」の伝承があり、二段構えの防御があったと考えられます。この鉄壁の守りにより、なんと3年間も耐え抜きました。しかし、主君である扇谷上杉家からの援軍も来ず、ついに1516年、三浦一族は滅亡します。



「油壺」の由来

油壺の湾内には今も美しい景色が広がっていますが、現在はマリーナとなっているこの場所こそが、かつての三浦一族にとって中世の船溜まりでした。現代のお洒落なクルーザーが並ぶ風景も、当時の歴史を重ね合わせて脳内変換してみれば、私にはもう小早にしか見えてきません。ぜひ皆様も、歴史の背景を知ったうえでこの場所を眺め、当時の水軍の姿を自由に想像しながら、そのロマンを味わっていただければと思います。この戦いで戦死した人たちの血が海を真っ赤に染め、それが油のように浮いて見えたことから「油壺」という地名になったと伝えられています。今の美しいマリーナの景色も、歴史を知って見ると面白いはずです。



新井城の戦いのその後

道寸の息子・義興(よしおき)は八十五人力を誇る猛将でしたが、新井城の戦いで自害した際、その首が小田原まで飛んでいったという伝説があります。その首を祀るために北条氏が建てたのが「居神(いがみ)神社」です。小田原城の鬼門にあるので、是非ご覧いただきたいと思います。

三浦一族は1516年に新井城で滅亡を迎えましたが、勝利した北条早雲(伊勢宗瑞)もまた、その後の歩みは長くはありませんでした。宗瑞は三浦を制圧した後、さらに上総(千葉県)へと進攻し上陸を果たしますが、その頃から体調を崩してしまいます。結局、本拠地である伊豆の韮山へと戻り、三浦一族を滅ぼしてからわずか3年後、静かにその生涯を閉じました。このように、滅ぼした側と滅ぼされた側の双方のストーリーを追いかけながらお城を巡ってみると、ただの遺構がより立体的な歴史の舞台として見えてくるはずです。



おわりに

少し宣伝も兼ねてお話しさせていただきたいのですが、本日販売を開始した三浦一族ゆかりの「怒田(ぬた)城」の御城印についてご紹介させてください。私はこれまで全国各地で150ほど御城印を手がけてきましたが、そのすべてにおいて、その土地のストーリーをお城のイメージに詰め込んでデザインしています。

この怒田城の御城印にも、ぜひ知っていただきたいポイントがあります。怒田城は、源平合戦の「衣笠合戦」の際、三浦一族が船で安房(千葉県)へ逃れ、源頼朝と合流したという非常に重要な役割を果たした「海のお城」です。そのためデザインに海を取り入れているのですが、もう一つ、モチーフとして「ハイガイ」という珍しい貝を描き込んでいます。

実は怒田城には「吉井貝塚」という縄文時代の貝塚があるのですが、そこから今では東京湾で見られない、有明海などにしか生息しないハイガイが見つかっているんです。これは縄文時代、今より気温が3度ほど高く海面が高かった「縄文海進」の時期、この城のすぐそばまで海が入り込んでいた証拠でもあります。


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現在の怒田城に行くと、海までは2キロほど離れていてあまり近く感じられません。しかし、かつてはここが三浦水軍の重要拠点であったという事実を、今の景色の中でも感じていただきたくて、あえてこの貝をモチーフに選びました。私の御城印をお持ちの方は、裏面にこうしたストーリーを詳しく書いていますので、お城と歴史、そして地域の繋がりをぜひ楽しんでいただければと思います。

本当はもっと、伊勢宗瑞と三浦一族が八丈島を舞台に繰り広げた戦いの話などもしたかったのですが、時間が足りなくなってしまいました。私は今日ずっと下のブースにおりますので、続きが気になる方はぜひ遊びに来てください。

先ほども触れましたが、三浦氏を滅ぼした側の伊勢宗瑞(早雲)の故郷、岡山県井原市の「高越城」もプロデュースさせていただいており、本日は井原市のブースで販売も行っています。滅ぼした側・滅ぼされた側、両方のストーリーを知ることで、歴史はより一層面白くなります。


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歴史は地域にとって唯一無二の素晴らしい資源です。100名城や現存天守はもちろん素晴らしいですが、名前も聞いたことがないような小さなお城にも、それらに負けない歴史ロマンが必ず眠っています。これからも、皆さんのペースでお城巡りを体験の切り口として楽しんでいただければ幸いです。

あっという間の30分でしたが、これで私の話を終わりにしたいと思います。明日は1時から井原市の高越城のお話もさせていただきます。本日は誠にありがとうございました。


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