横浜公園の港側、日本大通りに面した箇所に、シルクハットを被り日本大通りをじっと見つめている外国人の銅像がある。この銅像のモデルは「日本の灯台の父」と称されるリチャード・ヘンリー・ブラントン (Richard Henry Brunton)である。
ブラントンは1841年12月26日、スコットランド、アバディーンシャー州キンカーデン郡に生まれた。鉄道会社の技術助手として鉄道工事に関わっていたところ、英国商務省とスティーヴンソン事務所を介した日本政府の灯台建設技術者募集に応募し、慶応4(1868)年2月24日に技師長に採用され、3か月間にわたり灯台建設関連技術の研修を受けた後、慶応4(1868)年8月、妻子と技師補2人(マクヴェインとブランデル)を伴って来日した。当時26歳。
ブラントンの日本における活動を振り返る場合、当然、灯台建設による功績に着目されがちであるが、灯台以外でも、多くの功績を草創期の近代日本にもたらしている。特に、横浜居留地のまちづくりにおける功績は顕著であると言える。
ブラントンは日本の近代化に大きな足跡を残し、明治9(1876)年3月、明治政府から任を解かれ帰国。明治34(1901)年4月24日、59歳で亡くなった。
令和3(2021)年はそのブラントンの生誕180周年、没後120年にあたる。そこで、ここでは、そのブラントンの足跡の一端を今に伝える、神奈川県内の歴史的建造物や史跡についてレポートする。
○旧灯台寮遺構
ブラントンは来日後の明治2(1869)年に灯台事業を担う役所として「燈明台局」を、更に、明治7(1874)年には「燈明番(いわゆる灯台守)」の教育及び建設する灯台の試験調整を行うための「洋式試験灯台」を、大岡川河口右岸付近一帯(現在の中区北仲通6丁目)に設置した。「燈明台局」は、昭和23(1948)年、海上保安庁燈台局として東京に移転するが、それまでの約80年の間、灯台事業を日本全国に展開する拠点であり、また、最先端の西洋技術を習得した多くの灯台守を全国へ送り出す拠点であった。
現在、この一帯は、横浜市役所・横浜アイランドタワーを中心としたエリア(北仲通南地区)と、都市計画道栄本町線を挟んで北仲ノット・アパホテル等が建つ北仲通北地区となっており、大規模な再開発が進めらているが、その中のいくつかの場所で、その痕跡を見ることができる。
○大岡川河口部護岸遺構郡
灯台寮を設置するにあたり、ブラントンは敷地の周囲に石積み護岸を整備した。
その遺構の一つが大岡川河口部「大岡川夢ロード」と名付けられたデッキの右岸で見ることができる。水運のなごりを残す荷揚場、4ヶ所の階段、石造下水口、北仲橋付近には布積みの護岸(北仲大橋架橋にあたり積み直しされている)を見ることができる。
○横浜市役所遺構郡
横浜市役所の敷地内にも、横浜市役所建設時に発掘された「航路標識管理所(旧灯台寮)倉庫基礎(明治中期)」や「煉瓦造導水管」、文久2(1862)年頃の「大岡川石積み護岸」が復元展示されている。
これらはいずれも、平成27(2015)年に同地で実施された発掘調査で出土したもので、外部専門家による検討会を経て、外構計画の一部に盛り込まれ展示されているものである。
倉庫基礎と煉瓦造導水管の展示位置は横浜市役所の地下構造物との関係から移設されているが、発掘時の位置には舗装のパターンを変えたフットプリントとプレートがつけられている。
○旧灯台寮護岸
北仲通北地区では大岡川河口や海に面している部分には石積み護岸が復元されている。そのうち、突堤のように張り出している部分は護岸はブラントン の設計により明治6(1873)年に築造されたと推定されている布積護岸(17.0m)と明治30(1897)年築造の谷積護岸(59.7m)で構成されており、横浜市認定歴史的建造物として認定されている。
○灯台発祥の地記念碑
平成5(1992)年の第三管区海上保安本部庁舎移転後、しばらく灯台発祥の地は空き地となっていたが、平成15(2003)年に民間へ売却、平成24(2012)年に特定都市再生緊急整備地域として指定され、この場所が再開発事業の中で公園(北仲通北第一公園)となるあたり海上保安庁第三管区海上保安本部により公園内に記念碑が設置された。
記念碑には、試験灯台を初めてとして、旧灯台寮の由来などが記されおり、側には試験灯台レンガ基礎(4個・実物)が展示されている。
また、公園内の階段・スロープの踊場部分にあたる広場は、試験灯台のあった場所を示すように八角形をしている。
○劔崎灯台
ブラントン は慶応4(1868)年の来日から帰国する明治9(1876)年まで8年間の日本滞在中に、和歌山県串本町の樫野崎灯台を皮切りに26の灯台、5箇所の灯竿、2艘の灯船などを建設し、日本における灯台体系の基礎を築き上げた。
劔崎灯台もそのうちの一つで、石造で建設され、明治4(1871)年に日本で7番目の洋式灯台として点灯した。残念ながらこの初代の灯台は大正12(1923)年、関東大震災により倒壊したため、大正14(1925)年、現在の白色塔形(八角形)コンクリート造で再建された。
○日本大通り
慶応2 (1866)年、港崎遊郭の西(現・神奈川県横浜市中区旧末広町、現在の尾上町一丁目付近)にあった豚肉料理屋鉄五郎宅から出火した、所謂「豚屋火事」は、当時の外国人居留地の3分の2近くを焼き尽くした。この火事を契機に同年に幕府側と外国側との間で締結された「第3回地所規則(横浜居留地改造及び競馬場・墓地等約書)」に基づき、防火帯の役割を兼ねて整備されることとなったのが日本大通りである。
ブラントンの設計により、明治3(1870)年頃までに日本初の居留地の下水道工事に合わせてマカダム式砕石舗装が実施され、西洋式街路として完成した。当初は歩道3メートル・植樹帯9メートルを含む36メートルの幅員を持ち、沿道には官公庁が集積し、横浜のメインストリートの役割を果たした。
関東大震災の復興事業により歩道の幅員が削られ、植樹帯は銀杏並木に変えられたが、平成14(2002)年の再整備により、完成当時に近い幅員構成に復元された。
平成21(2009)年には、日本大通りの港側の突き当たりであった象の鼻地区が「象の鼻パーク」として整備され、現在では、映画やテレビコマーシャルのロケ地として頻繁に撮影が行われるなど、横浜を代表する景勝地の一つとなっている。平成19(2007)年に国登録記念物(名勝地)となった。
○横浜公園(旧彼我公園)とリチャード・ヘンリー・ブラントン像
横浜公園は日本大通りと同様に第3回地所規則に基づき造られた西洋式公園である。明治9(1876)年に開園。日本初の近代公園と言われている山手公園と異なり日本人も利用できたことから彼我公園(彼は外国人、我は日本人を指す)と呼ばれた。
ブラントンの当初設計により造られた、中央の外国人専用の運動場では、クリケットやラグビー、野球の日本最初の国際試合にも使われた。明治42(1909)年に国から横浜市の管理となり、名称が「 横浜公園」に改められると、造園家の茂出木朝二郎の設計により日本風の築山林泉型園地と野球場を備えた形に改修された。 関東大震災の復興整備に伴い野外音楽堂や本格的な野球場(横浜公園球場)が造られた。その後、進駐軍による接収を経て、返還後、野球場は「横浜平和球場」と改称された。
昭和53(1978)年には平和球場が取り壊され横浜スタジアムを建設。また日本庭園や水場をあしらったモニュメント広場が整備された。平成19(2007)年には国登録記念物(名勝地)となった。
公園内でブラントンが設計した痕跡を見つけることは難しいが、日本通り側の入口には前述の通り、ブラントンの銅像が設置されている。製作者は東京スカイツリーのデザイン監修なども行った澄川喜一。戦後の抽象彫刻をリードした第一人者で、令和2(2020)年3月に横浜美術館で大規模な個展「そりとむくり」展があったのでその名を知る人も多いのではないか。
○吉田橋(鉄の橋)
吉田橋は横浜市中区・関内駅の北側、半地下になっている首都高速横羽線の上、馬車道とイセザキモールを結ぶ位置に架橋されている。
現在の橋は、横浜開港期に横浜道と外国人居留地を隔てていた関所の橋として架橋された最初の木橋から数えて5代目にあたり、その高欄は2代目の「鉄の橋」をイメージして復元したものである。
2代目の吉田橋はブラントンの設計により明治2(1869)年に掛け替えられた。橋長24m、幅員6mの日本最初のトラス(下路ダブルワーレントラス桁)鉄橋であり、「鉄(かね)の橋」として市民に親しまれるとともに、文明開化のシンボルとして錦絵に描かれるなど大変人気を集めた。
現橋の関内側の橋詰には、その由来と横浜におけるブラントンの功績を伝える案内板が設置されている。
○電信創業の地の碑
日本におけるの電信の始まりは、明治2(1869)年8月9日、ブラントンの灯台づくりの拠点となった横浜燈明台役所から横浜裁判所間に、官用電気通信として開始したのが最初である。
神奈川府判事兼横浜外国官判事の職にあった寺島宗則は、東京~横浜間の通信を迅速に行なうため、電信架設の必要性を痛感し、明治元(1868)年9月7日、電信開設の建議書を外国官(現在の外務省)に提出。寺島宗則は、ブラントンに仲介を依頼し、イギリス政府との商談を進め、イギリスからの電信技師派遣、電信機器類の購入などが叶い、鉄道会社で電信技師をしていたジョージ・マイルス・ギルバート(George Miles Gilbert)が明治2(1869)年2月に招聘せれた。さらにフランス製ブレゲ指字電信機などの電信機器が届き、12月25日には横浜電信局と東京電信局との間で電報の取扱が始まった。この碑は、昭和38(1963)年、開設当時の横浜電信局があった場所(現在の横浜地方検察局)に日本電信電話公社(現NTT )が設置したものである。
○山下居留地遺跡
居留地の外国人たちは、産業の発展とともに汚染が進んだ自国の状況をつぶさに見ており都市の基盤整備の重要性を痛感していた。また、当時外国に於いても、日本に於いてもコレラが流行していたため、居留地の排水と下水道の整備は居留民の切望するところであった。当時、横浜の主要道路には、掘割が布設され、下水道としての役割を担っていたが、それは、構造的にも粗悪なもので、各所でつまり、溢れ出してしまうという状況で、地中に埋めた管に汚水を流すという欧米の下水道とは比較するに及ばないものであった。
その後、維新によって明治新政府が誕生してから、元治元(1864)年11月に各国領事と幕府との間で交わされた「横浜居留地覚書」に基づいて、居留地の下水道整備を進めたのがブラントンであった。居留地の下水道整備計画は明治2(1869)年に着手され、明治4(1871)年に完成した。この下水道は瓦製陶管による下水管を埋設するものであった。
山下居留地遺跡は、横浜山下町地区市街地再開発事業における神奈川芸術劇場・NHK横浜放送会館建築工事に伴う平成19(2007)年9月から12月の発掘調査によって発見された横浜居留地に関する遺跡である。現在、神奈川芸術劇場・NHK横浜放送会館の側部では、この関内地区における初めての本格的な調査の成果として遺構を展示している。
展示物は、建物の基礎遺構、煉瓦、街路や井戸の痕跡、陶器、ガラス器など多岐に渡るが、その一つに、かつてこの地にあった街路「駿河町通り」の下水瓦管がある。この瓦管はブラントンが整備を進めた時期のものと考えられる。暗い灰色で質感が屋根瓦と類似することから、瓦と同じ技術でつくったものと考えられる。
今回、紹介したのは、ブラントンの功績に関する遺構のごく一部に過ぎないが、それだけでも見て回るには十分に数であった。
開港を機に、近代化の道を辿って行った横浜・神奈川。今後も、その近代化を支えた「お雇い外国人」たちの足跡についても、生年や没年からの周年などの機会を捉えて訪ねていきたい。
Kommentit