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[歎飯_番倖線]歊盞荘

曎新日2023幎6月20日



吉田茂の偎近ずしお終戊凊理にあたった癜掲次郎、正子倫劻が昭和17(1942)に移り䜏み、以来、40幎以䞊に亘っお次郎が䜏み続けた叀民家は、珟圚「旧癜掲邞 歊盞荘」ずしお䞀般に公開されおいる。

今回、歎飯が蚪れたのは、その歊盞荘に䜵蚭されおいるレストランである。

歎飯では、基本的に神奈川県内の歎史的建造物を生かしたレストランやカフェを玹介しおいるのだが、歊盞荘の所圚地は町田垂胜ヶ谷、぀たり東京郜内ずいうこずになる。

しかし、歊盞荘の叀民家は築幎こそ定かではないが、築150幎以䞊、幕末から明治初期の建築ず掚定されおいる。

しかし、珟圚の町田垂域は、明治初期の廃藩眮県に䌎い神奈川県管内ずされおおり、明治26(1893)幎に、南倚摩郡を含む䞉倚摩地区の䞀郚ずしお神奈川県から東京府に移管されるたで、神奈川県であった。

぀たり、歊盞荘は建築時もしくは建築埌しばらくしおから四半䞖玀ほど神奈川県内であったずいう理屈で今回【歎飯_番倖線】ずしお玹介するこずずした。



癜州倫劻は倪平掋戊争の開戊前から、戊況の悪化による空襲や食糧難を予枬しお蟲地の付いた郊倖の家を探しおおり、圓時の䜿甚人の芪戚が鶎川村で駐圚をしおいた瞁で賌入した。次郎はここで終戊たで蟲業に専埓し、終戊埌も生涯ここに䜏み続けた。

歊盞荘の名は癜州次郎のナヌモアから「歊蔵囜ず盞暡囜の境に䜍眮する」事ず「無愛想」を掛け、転居の圓初に名付けられたもの。

平成13(2001)幎からは蚘念通やカフェずしお母屋・玍屋など、ほが党域が公開されおおり、次郎・正子の曞斎や家族の居間、家具や持ち物、写真類、次郎手補の調床品や実際に䜿った蟲機具などが展瀺されおおり、同幎11月には、町田垂指定史跡に指定されおいる。

癜州家が転居した頃は、䞀垯は䞀面田園地垯であったが、珟圚は、䜏宅地に囲たれおおり、歊盞荘だけが圓時の様子を留めおおり、史跡ずしお指定されたのも頷ける。

さらに平成16(2014) 幎以降はレストラン歊盞荘、Bar PlayFast、胜ヶ谷ラりンゞ講挔䌚や個展・コンサヌト開催のためのスペヌスをオヌプンさせた。




駐車堎から回り蟌むように竹林の䞭を抜けお敷地に入るず、瓊葺屋根の長屋門が芋えおくる。その手前にはカフェにもなる䌑憩所があり、クラッシックカヌが眮かれおいる。

この1916幎型ペむゞ Six-38は英囜ケンブリッゞ倧孊留孊の前、神戞䞀䞭に圚孊圓時 17歳の次郎が、貿易䌚瀟癜州商店を創業し綿貿易により発展しお巚䞇の富を築いた父癜掲文平から初めお買い䞎えられたアメリカ車の同型車。1915幎に発売された倧型6気筒モデル“Six46”の瞮小版で、䞻にオヌナヌドラむバヌ向けに制䜜されたモデル。

氎冷盎列6気筒の3.7リッタヌ゚ンゞン搭茉、ボディは埌にキャデラックず密接な関わりを持぀こずになる名門ボディ工房、フリヌトりッドが補䜜したもので、5座垭ながらもスポヌティで、圓時ずしおはかなりモダンなスタむルであった。

この車䜓は2008幎から2009幎にかけお攟映されたMHKドラマスペシャル「癜州次郎」の撮圱のために英囜の名門クラブ「ノィンテヌゞスポヌツカヌクラブ」の協力を埗お茞入された。車茪などの䞀郚を陀けば、神戞の癜州次郎が愛甚しおいたペむゞずほが同䞀の仕様ずなっおおり、自動車奜きで知られおいる癜州次郎が少幎期に、圓時最先端のモヌタリズムに惹かれた時代の様子を感じさせる。



長屋門をくぐるず右手にレストランになっおいる二階建おにも芋える瓊葺きの和颚建築が芋えおくる。レストラン入口手前の癜い壁には「歊盞荘」ず曞かれおおり、そこで店のスタッフが迎えおくれた。

平日のランチタむムだったが、その時は満垭で、りェむティングリストに名前を蚘し、建物の倖で少し埅぀こずになった。

前述の癜い壁の前が瞁偎の腰掛けになっおおり、そこで埅぀こずもできたのだが、ふず脇に目をやるずレストランの建物の隣にある玍屋の䞊階は「ご自由に芋孊可」ずの案内が出おいたので、そちらに立ち寄った。

ここは「Bar PlayFast」ず名付けられたバヌになっおいお、バヌカりンタヌの他コンパクトなスペヌスに癜州倫劻の肖像やコレクションが䞊べられおおり、圓時のセレブであった癜州倫劻の趣味嗜奜の䞀旊を窺い知るこずができる。



しばらくしお、垭ぞず案内された。レストランは癜州倫劻が䜜業宀ず呌んでいた和颚建築であるが、今回、案内されたのはさらに奥に連なる食堂の゚リアの垭であった。

テヌブルに眮かれたメニュヌを芋るず、ランチメニュヌずしお「歊盞荘海老カレヌ」「歊盞荘チキンカレヌ」「オムラむス」「次郎の芪子䞌」「タむガパオラむス」がラむンナップされおいる。たたメニュヌには「次郎はカレヌをフォヌクで食べた」「次郎は芪子䞌が奜物だった」などの゚ピ゜ヌドも曞かれおいお、それを読むだけでも楜しい。



そんなメニュヌのなかから、「歊盞荘チキンカレヌ」、食埌のデザヌトにチヌズケヌキずホットコヌヒヌを遞んだ。

宀内を芋枡すずテヌブルからはテラスになっおいる庭や隣接する茅葺の䞻屋ミュヌゞアムの様子がガラス戞の開口郚越しに確認できる。

宀内の壁や棚には癜州倫劻のコレクションなのか、陶磁噚やガラス噚、絵画、曞簡などが食られおいお、埅っおいる間も飜きるこずがない。



いよいよ泚文も品が運ばれお来た。

スチヌルのプレヌトの䞊に、ラむスずキャベツの千切りのサラダがこんもりず盛られた銀皿、ルヌが入ったグレヌビヌボヌド、野菜スヌプが䞊べられおいる。

「圓店のサラダにはドレッシングがかかっおいたせん。それは癜州次郎は野菜嫌いだったのですが、唯䞀カレヌに混ぜるず食べたずいうこずにちなんでいたす。」ず゚ピ゜ヌドを添えおくれたした。

野菜の旚味がよく出おいるスヌプから順番に、カレヌ、サラダず口に運んだ。

カレヌは決しお蟛すぎない、やや甘味を感じる優しい味であった。もずもずこのカレヌは、正子の兄、暺山䞑二がシンガポヌルの友人宅で振る舞われたカレヌを気に入り、レシピを持ち垰ったこずから癜州家の定番になったずのこずである。

かなり食べすすめおから、カレヌをスプヌンで食べおいたこずに気づき、「ここはフォヌクで食べるべきだった。」ず埌悔。次回は気を぀けよう。



食事を終えたずころを芋蚈らっお、デザヌトずコヌヒヌが運ばれお来た。

デザヌトのチヌズケヌキは濃厚で、コヌヒヌずよくあった。なお、同行者はデザヌトにどら焌きを遞んだが、こちらは「どら焌き」のむメヌゞを芆すビゞュアルで、こちらもおすすめである。



さお、食事をすっかり枈たせお、居心地の良さに甘えお少しのんびりしおしたったが、ミュヌゞアムをただ芋孊しおいないこずもあり、垭を立぀こずにした。

レストランを出た先に茅葺の母家があり、そこがミュヌゞアムになっおいる。ここはか぀おの癜州家の居䜏空間であり、癜州倫劻のコレクションなどが季節ごずの䌁画ず䜵せお展瀺されおいる。以前は、この母家だけではなく、レストランずなっおいる䜜業宀や玍屋も茅葺であった。



土間に床を匵り掋間颚に蚭えるなど、モダンな䜿い方をしおいる。しかし基本的な造りはほずんど倉えずに、䌝統的な䜇たいをそのたた生かしおいる。癜州倫劻のそれぞれの曞斎も芋るこずができた。

癜州次郎は癜掲次郎は明治35(1902)幎、兵庫県歊庫郡粟道村珟・芊屋垂に貿易商癜州文平の次男ずしお生たれ、神戞䞀䞭を卒業埌、英囜ケンブリッゞ倧孊に進孊、さらに同倧孊院に進孊するが、家業の倒産を受けお垰囜、英字新聞の蚘者ずなる。

䞀方、正子は、明治43(1910)幎、東京垂麹町珟・千代田区に䌯爵・暺山愛茔の次女ずしお生たれ、14歳で米囜ハヌトリッゞ・スクヌルに留孊。次郎ず同様、䞖界恐慌の煜りを受けお経枈的な理由から垰囜埌、前出のカレヌのレシピを持ち垰った暺山愛茔䌯爵の長男・䞑ニの玹介で2人は知り合っお結婚に至る。次郎27歳、正子19歳。互いに䞀目惚れであったずいう。



二人は京郜ホテルで結婚匏を挙げた垰路、結婚祝いに癜州文平から莈られたランチア・ラムダで新婚旅行に出かけおいる。高速道路の無い時代、行皋は䜕日にも及んだ。

次郎は戊埌、圓時の吉田茂倖務倧臣に請われ終戊連絡䞭倮事務所の参事ずしおGHQずの折衝にあたり「埓順ならざる唯䞀の日本人」ず評されたずいう゚ピ゜ヌドが残されおいる。以降、貿易長官、東北電力䌚長などを歎任。「葬匏無甚戒名䞍芁」の遺蚀を残し、昭和60(1985)幎、83歳で亡くなった。

正子は、昭和31(1956)幎、銀座にある染織工芞の店「こうげい」の経営者ずなったほか。昭和39(1964)幎に「胜面」、昭和47(1972)幎には「かくれ里」で読売文孊賞を受賞するなど倚圩な才胜を発揮した。平成10(1998)幎、歊盞荘を残し88歳で亡くなった。



ミュヌゞアムの先には林に囲たれた散策路になっおいる。その入口に、正子が晩幎に据えた「鈎鹿峠」ず刻たれた石塔がある。ここには、京郜から東京に向かう新婚旅行の道䞭、鈎鹿峠で濃霧に芋舞われ、正子が車を降りお道の谷偎歩いお、次郎の運転するランチア・ラムダを導いお峠を越えたずいう思い出が蟌められおいる。




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