吉田茂の側近として終戦処理にあたった白洲次郎、正子夫妻が昭和17(1942)に移り住み、以来、40年以上に亘って次郎が住み続けた古民家は、現在「旧白洲邸 武相荘」として一般に公開されている。
今回、歴飯が訪れたのは、その武相荘に併設されているレストランである。
歴飯では、基本的に神奈川県内の歴史的建造物を生かしたレストランやカフェを紹介しているのだが、武相荘の所在地は町田市能ヶ谷、つまり東京都内ということになる。
しかし、武相荘の古民家は築年こそ定かではないが、築150年以上、幕末から明治初期の建築と推定されている。
しかし、現在の町田市域は、明治初期の廃藩置県に伴い神奈川県管内とされており、明治26(1893)年に、南多摩郡を含む三多摩地区の一部として神奈川県から東京府に移管されるまで、神奈川県であった。
つまり、武相荘は建築時もしくは建築後しばらくしてから四半世紀ほど神奈川県内であったという理屈で今回【歴飯_番外編】として紹介することとした。
白州夫妻は太平洋戦争の開戦前から、戦況の悪化による空襲や食糧難を予測して農地の付いた郊外の家を探しており、当時の使用人の親戚が鶴川村で駐在をしていた縁で購入した。次郎はここで終戦まで農業に専従し、終戦後も生涯ここに住み続けた。
武相荘の名は白州次郎のユーモアから「武蔵国と相模国の境に位置する」事と「無愛想」を掛け、転居の当初に名付けられたもの。
平成13(2001)年からは記念館やカフェとして母屋・納屋など、ほぼ全域が公開されており、次郎・正子の書斎や家族の居間、家具や持ち物、写真類、次郎手製の調度品や実際に使った農機具などが展示されており、同年11月には、町田市指定史跡に指定されている。
白州家が転居した頃は、一帯は一面田園地帯であったが、現在は、住宅地に囲まれており、武相荘だけが当時の様子を留めており、史跡として指定されたのも頷ける。
さらに平成16(2014) 年以降はレストラン武相荘、Bar PlayFast、能ヶ谷ラウンジ(講演会や個展・コンサート開催のためのスペース)をオープンさせた。
駐車場から回り込むように竹林の中を抜けて敷地に入ると、瓦葺屋根の長屋門が見えてくる。その手前にはカフェにもなる休憩所があり、クラッシックカーが置かれている。
この1916年型ペイジ Six-38は英国ケンブリッジ大学留学の前、神戸一中に在学当時 17歳の次郎が、貿易会社白州商店を創業し綿貿易により発展して巨万の富を築いた父白洲文平から初めて買い与えられたアメリカ車の同型車。1915年に発売された大型6気筒モデル“Six-46”の縮小版で、主にオーナードライバー向けに制作されたモデル。
水冷直列6気筒の3.7リッターエンジン搭載、ボディは後にキャデラックと密接な関わりを持つことになる名門ボディ工房、フリートウッドが製作したもので、5座席ながらもスポーティで、当時としてはかなりモダンなスタイルであった。
この車体は2008年から2009年にかけて放映されたMHKドラマスペシャル「白州次郎」の撮影のために英国の名門クラブ「ヴィンテージスポーツカークラブ」の協力を得て輸入された。車輪などの一部を除けば、神戸の白州次郎が愛用していたペイジとほぼ同一の仕様となっており、自動車好きで知られている白州次郎が少年期に、当時最先端のモータリズムに惹かれた時代の様子を感じさせる。
長屋門をくぐると右手にレストランになっている二階建てにも見える瓦葺きの和風建築が見えてくる。レストラン入口手前の白い壁には「武相荘」と書かれており、そこで店のスタッフが迎えてくれた。
平日のランチタイムだったが、その時は満席で、ウェイティングリストに名前を記し、建物の外で少し待つことになった。
前述の白い壁の前が縁側の腰掛けになっており、そこで待つこともできたのだが、ふと脇に目をやるとレストランの建物の隣にある納屋の上階は「ご自由に見学可」との案内が出ていたので、そちらに立ち寄った。
ここは「Bar PlayFast」と名付けられたバーになっていて、バーカウンターの他コンパクトなスペースに白州夫妻の肖像やコレクションが並べられており、当時のセレブであった白州夫妻の趣味嗜好の一旦を窺い知ることができる。
しばらくして、席へと案内された。レストランは白州夫妻が作業室と呼んでいた和風建築であるが、今回、案内されたのはさらに奥に連なる食堂のエリアの席であった。
テーブルに置かれたメニューを見ると、ランチメニューとして「武相荘海老カレー」「武相荘チキンカレー」「オムライス」「次郎の親子丼」「タイガパオライス」がラインナップされている。またメニューには「次郎はカレーをフォークで食べた」「次郎は親子丼が好物だった」などのエピソードも書かれていて、それを読むだけでも楽しい。
そんなメニューのなかから、「武相荘チキンカレー」、食後のデザートにチーズケーキとホットコーヒーを選んだ。
室内を見渡すとテーブルからはテラスになっている庭や隣接する茅葺の主屋(ミュージアム)の様子がガラス戸の開口部越しに確認できる。
室内の壁や棚には白州夫妻のコレクションなのか、陶磁器やガラス器、絵画、書簡などが飾られていて、待っている間も飽きることがない。
いよいよ注文も品が運ばれて来た。
スチールのプレートの上に、ライスとキャベツの千切りのサラダがこんもりと盛られた銀皿、ルーが入ったグレービーボード、野菜スープが並べられている。
「当店のサラダにはドレッシングがかかっていません。それは白州次郎は野菜嫌いだったのですが、唯一カレーに混ぜると食べたということにちなんでいます。」とエピソードを添えてくれました。
野菜の旨味がよく出ているスープから順番に、カレー、サラダと口に運んだ。
カレーは決して辛すぎない、やや甘味を感じる優しい味であった。もともとこのカレーは、正子の兄、樺山丑二がシンガポールの友人宅で振る舞われたカレーを気に入り、レシピを持ち帰ったことから白州家の定番になったとのことである。
かなり食べすすめてから、カレーをスプーンで食べていたことに気づき、「ここはフォークで食べるべきだった。」と後悔。次回は気をつけよう。
食事を終えたところを見計らって、デザートとコーヒーが運ばれて来た。
デザートのチーズケーキは濃厚で、コーヒーとよくあった。なお、同行者はデザートにどら焼きを選んだが、こちらは「どら焼き」のイメージを覆すビジュアルで、こちらもおすすめである。
さて、食事をすっかり済ませて、居心地の良さに甘えて少しのんびりしてしまったが、ミュージアムをまだ見学していないこともあり、席を立つことにした。
レストランを出た先に茅葺の母家があり、そこがミュージアムになっている。ここはかつての白州家の居住空間であり、白州夫妻のコレクションなどが季節ごとの企画と併せて展示されている。以前は、この母家だけではなく、レストランとなっている作業室や納屋も茅葺であった。
土間に床を張り洋間風に設えるなど、モダンな使い方をしている。しかし基本的な造りはほとんど変えずに、伝統的な佇まいをそのまま生かしている。白州夫妻のそれぞれの書斎も見ることができた。
白州次郎は白洲次郎は明治35(1902)年、兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に貿易商白州文平の次男として生まれ、神戸一中を卒業後、英国ケンブリッジ大学に進学、さらに同大学院に進学するが、家業の倒産を受けて帰国、英字新聞の記者となる。
一方、正子は、明治43(1910)年、東京市麹町(現・千代田区)に伯爵・樺山愛輔の次女として生まれ、14歳で米国ハートリッジ・スクールに留学。次郎と同様、世界恐慌の煽りを受けて経済的な理由から帰国後、(前出のカレーのレシピを持ち帰った)樺山愛輔伯爵の長男・丑ニの紹介で2人は知り合って結婚に至る。次郎27歳、正子19歳。互いに一目惚れであったという。
二人は京都ホテルで結婚式を挙げた帰路、結婚祝いに白州文平から贈られたランチア・ラムダで新婚旅行に出かけている。高速道路の無い時代、行程は何日にも及んだ。
次郎は戦後、当時の吉田茂外務大臣に請われ終戦連絡中央事務所の参事としてGHQとの折衝にあたり「従順ならざる唯一の日本人」と評されたというエピソードが残されている。以降、貿易長官、東北電力会長などを歴任。「葬式無用戒名不要」の遺言を残し、昭和60(1985)年、83歳で亡くなった。
正子は、昭和31(1956)年、銀座にある染織工芸の店「こうげい」の経営者となったほか。昭和39(1964)年に「能面」、昭和47(1972)年には「かくれ里」で読売文学賞を受賞するなど多彩な才能を発揮した。平成10(1998)年、武相荘を残し88歳で亡くなった。
ミュージアムの先には林に囲まれた散策路になっている。その入口に、正子が晩年に据えた「鈴鹿峠」と刻まれた石塔がある。ここには、京都から東京に向かう新婚旅行の道中、鈴鹿峠で濃霧に見舞われ、正子が車を降りて道の谷側歩いて、次郎の運転するランチア・ラムダを導いて峠を越えたという思い出が込められている。
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