令和5(2023)年11月11日(土)午後1時30分から横浜市役所3階多目的室で開催された第26回横浜市まちづくり問題研修会「よこはま建築ひろばアカデミー」講演会を聴講した。開始15分前に会場に入ると事前申込(定員100名)の参加者でほぼ席が埋まっていた。
講演に先立ち肥田雄三氏(横浜市建築局公共建築部長)から「よこはま建築ひろば」趣旨や内容の紹介があり「昨年は横浜公共建築100周年、今年は関東大震災100年。本研修会はもともと関係者のみを対象としていたが、この機会に今回は一般の方にも聴講いただけるようにした。貴重な機会なので是非、みなさんに聴いていただきたい。」とあいさつを締め括った。
講師は青木祐介氏(横浜開港資料館・横浜都市発展記念館副館長)。テーマを「関東大震災と横浜 廃墟から復興まで」として、震災後の様子がわかる貴重な資料などのスライドを紹介しながら講演が進められた。以下に講演の内容の一部を紹介する。
横浜の関東大震災の写真といえば横浜駅長が震災が起こった時間をさした駅の時計と下に立っている写真が有名だが、その乾板写真(原本)が今年見つかった。撮影者も電気局(現在の交通局)に勤務していた市の職員「中野春之助」だと判明した。
横浜開港資料館で開催中の企画展「大災害を生き抜いて」のチラシのメインビジュアルは当時元街小学校の教師であった洋画家の八木彩霞による関東大震災を時系列で描いたスケッチ。
来週(令和5(2023)年11月16日)から関東大震災直後の様子がわかるパノラマ写真を横浜市役所2階のプレゼンテーションスペースで展示する。
横浜は壊滅的な被害を受けて煉瓦造の建物の多くが倒壊したが、震災前にいち早く鉄筋コンクリートを採用して建てられた寿小学校は大きな被害がなかった。
震災前にも都市計画はあった。そういう意味では震災復興計画はゼロからのスタートではなかった。
関東大震災では最初の地震から5分のうちに二度大きな余震があり、一度目の地震で倒壊を免れた建物に家財などを取りに戻り亡くなったというエピソードも。
本格的な被災支援が届くのは9月3日以降。支援に来た軍艦に同乗した役人曰く「海岸より望見すれば、残存する家屋なし」。
横浜公園では水道管が破裂して、逃げて来た人々が助かった。一方で消火に必要な水が得られなかった
現在の市役所周辺の遺構の紹介。銀行集会所の基礎遺構とフットプリント。案内板でどこの遺構がどこからどこに移ったのか分かるようになっている。
横浜市役所は震災による資料を消失、都市計画のトップ阪田貞昭急死のダブルパンチ。国から坂田の後任としてやって来た牧彦七曰く「呆然としていた」。
原三渓も介入してまとめた震災復興「牧案」は戸部あたりに中心区もち逍遥道路(公園道路)などで構成されていたが、予算の問題などから国で採用されず日の目を見なかった。
実際の復興計画は主に「区画整理」「街路事業」「公園事業」で構成されていた。
代表的な街路事業は「山手隧道」。自動車交通を想定してアスファルト舗装で施工。復興支援でも小回りのきく自動車が活躍した。
震災復興橋梁では一つとして同じものを作らなかった。この頃から都市景観を意識したのではないか。
震災復興公園の一つ「野毛山公園」は震災前の原・茂木の庭園を生かした計画がなされたと考えられる。
大正11(1922)年に横浜市に建築課ができる。課長は山田七五郎。2年前に臨時建築課。課長の元に7人の技師がいて約100人の課員を束ねていた。
山田七五郎は大正3(1914)年に開港記念会館の技術者として横浜市入庁。横浜市入庁前は長崎県の技師。当時横浜市長であった荒川義太郎が、横浜市長となる前に長崎県知事であったことから呼び寄せられたと考えられる。後に建築課長となる木村龍雄も。
震災復興期には公共建築として、4代目市庁舎や震災記念館、小学校31校などが建てられる。小学校では標準設計が用いられる。小公園とともに作られた東京の小学校と違い、アールデコの表現などが見られ、市街地よりも丘陵地へ建設される傾向が見られる。
横浜市開港記念会館再開を記念する昭和2(1927)年6月2日の式典で有吉忠一市長が「大横浜」演説。当日資料は大横浜建設記念絵「10年後の横浜港」。
開港記念会館は区間整理で拡幅道路に当たっていたため取り壊される可能性もあったが、一角だけ区画整理せず、そのまま残すことができた。
横浜商工奨励館は突貫工事で作られた。施工の多くを岩崎金太郎が請負。貴賓室を完成させて昭和4(1929)年4月23日の昭和天皇行幸に間に合わせた。翌日が野毛山公園での復興祝賀会で、復興事業は一段落する。
その後、山田七五郎は横浜市を退職するが、功績を讃えられ(存命中であるが)胸像が作られる。現在は開港記念館で展示されている。
山下公園は海上での瓦礫処理の告示が10月10日に告示。一方、9月21日には臨海公園計画がすっぱ抜かれていることから、公園としての計画が先ということになる。
山下公園には船溜りやインド水塔ができた。インド水塔はインド商会から寄贈されたもので、今でも9月1日に式典が行われている。
講演の内容は資料を使って横浜の公共建築の歴史と関東大震災の関係を時系列で丁寧に解説されて、今後の横浜の歴史を生かしたまちづくりを考える上で大変参考になる講演であった。
最後に山谷朋彦氏(一般社団法人横浜建設業協会会長)から閉会のあいさつがあり、講演会が終了した。
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