安政6(1859)年の横浜開港を契機に、それまで小さな村だった横浜は国内外の人々が集う、貿易港として発展してきた。街が発展してきた背景には、全国各地から横浜に集められた生糸の輸出がある。大正12(1923)年に発生した関東大震災以前では、国内の生糸貿易は横浜港を中心に行われ、そこから生み出された利益は、まちづくりの財源となってきたのである。現在の横浜中心部の観光拠点となっている施設の多くも、生糸貿易と所縁のあるものが多い一方、こうした歴史はあまり注目されていない。
今回のコラムでは、市内に現存する生糸貿易と所縁のある施設について、「関内・山手地区編」、「三渓園編」、「郊外部編」の3分構成に分けて紹介する。
なお、今回紹介する施設の多くは、「THE HERITAGE TIMES 横浜・神奈川」のコラムや歴飯等でも度々取り上げている。長年に渡り都市の発展を記憶してきた歴史資産には多くのストーリーが紐づいており、少し見方を変えるだけでも違った楽しみ方ができることも感じていただければ幸いである。
1 - 汽車道
旧臨港線護岸 [横浜市認定歴史的建造物]
港一号橋梁 [横浜市認定歴史的建造物]
港二号橋梁 [横浜市認定歴史的建造物]
赤レンガ倉庫やハンマーヘッドパーク等の歴史的建造物を活用した商業施設で賑わう新港埠頭地区は、明治32(1899)年、拡大していく貿易量に対応するための港として整備が始まる。明治44(1911)年には、物資輸送のため、桜木町駅と新港埠頭地区を結んだ横浜臨港鉄道(通称:税関線)が開通した。関東大震災を経て北仲地区に生糸検査所が建設されると、臨港鉄道から分岐して生糸検査所への引き込み線も整備された。現在の汽車道の一部は全国各地から横浜に運ばれてきた生糸が通った道である。
港一号橋梁 (横浜市認定歴史的建造物)
2 - 港三号橋梁
旧大岡川橋梁 [横浜市認定歴史的建造物 / 経済産業省認定近代化産業遺産群]
JR桜木町駅から汽車道に沿って赤レンガ倉庫方面に進むと、横浜ワールドポーターズ前に見えてくる鉄橋が「港三号橋梁」である。明治39(1906)年に北海道炭鉱鉄道の夕張川橋梁として製作されたが、昭和3(1928)年に汽車道から分岐した旧生糸検査所への引込線として大岡川に移設され、「大岡川橋梁」と呼ばれた。その後、平成9(1997)年に現在地に再移設されている。各地から生糸検査所に運ばれた生糸と鉄道輸送の関係性を伝える貴重な歴史資産である。
港三号橋梁(横浜市認定歴史的建造物)
3 - 北仲ブリック&ホワイト
旧横浜生糸検査所附属生糸絹物専用B号倉庫及びC号倉庫 [横浜市認定歴史的建造物]
旧横浜生糸検査所附属倉庫事務所 [横浜市指定有形文化財]
横浜第2合同庁舎(旧横浜生糸検査所)[横浜市認定歴史的建造物]
横浜市庁舎の向い、北仲ブリック&ホワイト一帯は、かつて横浜港から世界に輸出された生糸の品質管理のための施設「生糸検査所」の跡地である。各地で生産された生糸は生糸検査所に集められ、輸出前の検査が行われていた。現在の横浜第二合同庁舎(復元・横浜市認定歴史的建造物)(以降「庁舎」という)の建物は、長年「キーケン」の愛称で親しまれた「生糸検査所」の本館であり、「KITANAKA BRICK NORTH」は、生糸を保管した付属倉庫棟(復元・横浜市認定歴史的建造物)、「KITANAKA BRICK SOUTH」は、付属倉庫事務所棟(旧帝蚕倉庫事務所)である。これら一連の施設は、関東大震災により甚大な被害を受けた生糸貿易を復興するために、震災の3年後にあたる大正15(1926)年に建てられた。設計は、国内の鉄筋コンクリート建築の先駆者であった遠藤於菟(えんどう おと)による。鉄筋コンクリートで造った躯体の外側に仕上げとして煉瓦の飾り柱を用いることで、一見煉瓦造を思わせる外観となっている。庁舎の頂部には、蚕蛾をモチーフとした装飾が付いており、建物の歴史を物語る。
なお、「KITANAKA BRICK SOUTH」には、[歴飯_92]CAFÉ&RESTURANTS 里武士 馬車道が、庁舎には[歴飯_174]横浜第二合同庁舎喫茶室がそれぞれ入居している。
横浜第二合同庁舎(横浜市認定歴史的建造物)
旧横浜生糸検査所附属生糸絹物専用B号倉庫及びC号倉庫(横浜市認定歴史的建造物)
4 - 神奈川県立歴史博物館
旧横浜正金銀行本店本館 [国指定重要文化財 / 経済産業省認定近代化産業遺産群]
開港直後の課題の一つに「為替」を担う機関の不備が挙げられる。当時国内には銀行はなく、為替相場は外国商人と日本商人によって決められていた。しかし、収支の不均衡が問題となり、国内の生糸商が中心となって為替銀行の整備を嘆願していく。こうして、明治13(1880)年に設立されたのが、横浜正金銀行である。設計は大蔵省臨時建築部の妻木頼黄(つまきよりなか)で、現場の指揮を後に横浜で生糸関係の建築を多く手掛けることになる遠藤於菟が担当している。
なお、館内には[歴飯_119]ともしびショップミュージアム店が入居している。
神奈川県立歴史博物館(国指定重要文化財)
5 - 横浜市開港記念会館
[国指定重要文化財]
横浜三塔の一つ「ジャックの塔」の愛称で親しまれる「横浜市開港記念会館」。その前身は、大正6(1917)年に横浜開港50周年記念事業として市民から寄付を募り建設された「開港記念横浜会館」に遡る。この寄付者には、生糸貿易で財を成した原三渓(原富太郎)をはじめとした横浜商人が名を連ねている。
横浜市開港記念会館(国指定重要文化財)
6 - KN日本大通りビル
旧三井物産横浜支店ビル
横浜公園から象の鼻パークへと続く日本大通りは、横浜を代表する観光地の一つである。この沿道に建つKN日本大通りビルは、明治44(1911)年に三井物産横浜支店のオフィスビルとして日本初の鉄筋コンクリート造で建てられた。当時の三井物産の主力輸出商品は生糸であり、横浜の生糸貿易の歴史を今に伝える。現存する数少ない生糸貿易商社の社屋である。なお、設計は遠藤於菟が担当している。
KN日本大通りビル
7 - シルクセンターと桑の古木
戦後間もない昭和30(1955)年、戦後復興期の神奈川県政を担った内山岩太郎知事によりシルクセンター設立構想が提唱された。内山は戦後の県土復興には生糸貿易の再興が必要と考え、横浜開港100周年記念事業として、横浜市や繊維業界の協力を得ながら生糸産業の国際的なPRの場を整備する。設計はコンペの結果、世界的建築家ル・コルビュジェに師事した坂倉準三が担当した。シルクセンター内には、横浜の生糸貿易を支えた「横浜生糸取引所」が設けられ、平成18(2006)年まで同施設内で事業を行っていた。この他、同施設内に入居する「シルク博物館」では、内山の構想を継ぎ、蚕糸・絹業の普及啓発事業を継続している。
また、シルクセンターの前に植えられた桑の古木は、横浜開港期に津久井郡津久井町から植樹されたものとされている。
シルクセンターと桑の木
8 - 旧居留地91番地塀
[横浜市地域有形文化財]
日本大通りからレーズンサンドが有名な「横浜かをり山下町本店」の脇を抜け、ローズホテルに向かって歩いていくと右手に石組みと煉瓦を組み合わせた不思議な塀が見えてくる。この敷地は明治3(1870)年から戦後にかけて、イタリア系の蚕種・生糸輸出商社デローロ商会の所在地であったことから、同商会の塀ではないかと推測されている。この塀は、マンション建設の際に発見され、所有者や住民の協力の下、現地に保存されている。
なお、かつてはこの付近に複数の生糸貿易商社が点在していたことから、同塀のある沿道は、「シルク通り」と呼ばれている。
旧横浜居留地91番地塀(横浜市地域有形文化財)
9 - 氷川丸
[国指定重要文化財]
山下公園前に停泊し、横浜を代表する観光地の一つとなっている氷川丸。昭和5(1930)年に横浜船渠(現 三菱重工(株))で造られ、フランスを代表する船内内装設計者マルク・シモン社が内装設計を手掛けた貨客船である。アメリカのシアトルを定期航路とし、喜劇王チャールズ・チャップリンや皇族をはじめとした著名人の乗船、戦時中の病院船等の歴史に焦点が当たる一方で、アメリカまで高速で生糸を輸出した「シルクライナー」と呼ばれた別名があったことはあまり知られていない。氷川丸は生糸の輸出にも使われていた船であり、船内には「シルクルーム」と呼ばれる生糸専用の倉庫があった。倉庫内は、湿気を防ぐため内装に木板を張った仕上げとなっていた。
氷川丸(国指定重要文化財)
10 - エリスマン邸
[横浜市認定歴史的建造物]
外国人居留地の歴史を色濃く残す山手地区は、居留外国人の住宅地として発展してきた。横浜を拠点に貿易を行った生糸貿易商の多くも山手地区に居宅を構えた。山手西洋館として公開されているエリスマン邸は、生糸貿易商社シーベルヘグナー商会の横浜支配人格であったフリッツ・エリスマン氏の邸宅である。設計は、居留地建築家の流れを汲むアントニン・レーモンドによる。当初は山手127番地にあったがマンション開発に伴い、事業者から部材が寄贈され、元町公園内に移築復元された。
なお、館内には[歴飯_116]Café Ehrismann(カフェ・エリスマン)がある。
エリスマン邸(横浜市認定歴史的建造物)
【参考】
『開港150周年記念 横浜建築家列伝』 2009年 横浜市都市発展記念館
『横浜タイムトリップ・ガイド』 2008年 横浜タイムトリップ・ガイド制作委員会編・著
『都市の記憶-横浜の主要歴史的建造物 改訂第6版』 2014年 (公社)横浜歴史的資産調査会
(財)シルクセンター国際貿易観光会館 公式ホームページ
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