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[カレンダー]路面電車の日【6/10 】



平成7(1995)年6月6日に、全国の路面電車を持つ自治体が広島市で開催した「第2回路面電車サミット」で制定。

日付は「ろ(6)でん(10)」(路電)と読む語呂合わせから。この日には各地で路面電車の利用促進のためのキャンペーンやイベントが行われる。

一般社団法人・日本記念日協会のサイトによると、全国各地で路面電車を運行する事業者で構成された全国路面軌道連絡協議会が制定したとなっている。

ここでは、神奈川県内で静体保存されている路面電車を見るこたができるスポットを紹介する。


 

横浜市電保存館(横浜市磯子区滝頭)




昭和47(1972)年3月に廃止された横浜市交通局の路面電車(横浜市電)に関する資料を保存・展示する施設。

館内には明治37(1904)年から昭和47(1972)年まで約70年間にわたって「ちんちん電車」の愛称で親しまれ、横浜市民の足として活躍した7両(500型、1000型、1100型

、1300型、1500型、1600型、無蓋貨車10型)が、停留所標識、敷石を当時の姿で保存、再現された展示室で保存されている。

その他、「歴史展示コーナー」では、「横浜の発展と交通」をテーマとして、横浜の発展の礎となった吉田新田の干拓から、横浜開港、関東大震災、戦後の復興、市電の最盛期を経て廃止に至る経過、その後の横浜の都市計画の基となる6大事業や地下鉄への移行などをわかりやすく解説。鉄道やバスが走る模型ジオラマ「ハマジオラマ」や故吉村栄氏が、およそ40年かけて制作、収集された鉄道模型(Oゲージ)コレクション「吉村コレクション」が展示されている。


 

野毛山動物園(横浜市西区・横浜市電1518号 )



JR桜木町駅から野毛の急峻な坂を登ると野毛山動物園の入口につく。入場口から入って管理事務所棟を左手に見ながら園路を下っていくと、横浜市交通局の車輌の証であるクリーム色の車体に青い線が引かれた車体が見える。横浜市電1518号である。

この車輌は昭和26(1951)年日立製作所で製作された横浜市電1500型20両のうちの1台である。横浜市電1500型は、アメリカで開発された高性能路面電車であるPCCカーに触発され1950年代に日本で開発されたいわゆる「和製PCCカー」のひとつで、「横浜市電の決定版」とまで言われた高性能車であり、昭和47(1972)年3月31日、横浜市電が全廃されるまで市民の足として走り続けていた。

元々、野毛山動物園には昭和41(1966)年、横浜市電廃止に伴う保存車両第1号であった横浜市電422号が設置されいたが、老朽化に伴いし、代替わりする形で、横浜市電全廃の年となった昭和47(1972)年9月、今度は横浜市電最後の保存車輌としてここに静態保存され、子どもたちに人気の休憩所として使われている。

車内を見回すと、網棚や吊革、照明器具は取り外され、座席も布張りから板張りへ変更、後部の運転席付近も取り払われているが、全体としては保存状態が良い。車輌前面には昭和42(1967)年から43(1968)年にかけて実施されたワンマン化に合わせ設置された「ワンマン」表示が残る。

車輌が設置されている野毛山動物園は、震災復興公園として大正15(1926)年に開園した野毛山公園の一部である。昭和24(1949)年、その野毛山公園を会場として開催された日本貿易博覧会の会場施設を引き継ぎ、昭和26(1951)年に野毛山遊園地が開園するが、その時、動物園が新設されたのが始まりである。開園当時からインドゾウのはま子などで人気を博していた。昭和39(2964)年には遊園地部分が廃止となり野毛山動物園と名称が変わり、併せて市民の憩い場、社会教育施設として無料化された。現在でも年間70万人以上の来場者がある人気施設である。

野毛山という江戸にまで遡ることができる土地の履歴を今に伝える動物園と、明治から昭和にかけて市民の足を支えることで横浜の都市発展に寄与した路面電車。という難しいことはさておき、電車と動物園という子どもたちの大好きなゴールデンコンビ、是非、ご家族やお子様連れで訪れていただきたい。


 

久良岐公園(横浜市港南区・横浜市電1156号)



横浜市電1150型は、間接制御方式・防振台車を採用し、高加減速や振動・騒音抑制が実現した好評を博した1500型と同型の車体としつつ製造費を押さえた車両として、昭和30(1955)年までに計22両が製造され、各車庫に配置、全区間で活躍した。

横浜市電1156号は、昭和27(1952)年、ナニワ工機会(アルナ工機)(または宇都宮車両)で製造された1150型10両のうちの1両で、新車であるが、老朽化により廃車となる横浜市電820号の名義を書き換える形で登録された。

昭和31(1956)年に井土ヶ谷線が開業した際には「祝賀電車」として、また、昭和41(1966)年の、生麦・中央市場線廃止の際には「長い間ご乗車ありがとうございました」というメッセージが書かれた横断幕を掲げて走るなど、横浜市電の歴史の節目で大役を果たし、昭和42(1967)年にはワンマン運転のための改造が施され、横浜市電全廃となる昭和47(1972)年まで市民の足として活躍した。

横浜市電全廃時に1150型は18両残っていたが、他の路面電車に譲渡されることなく、昭和48(1973)年の久良岐公園の開園にあわせて静態保存された1156号が現存する唯一の1150型となっている。

安住の地を得たはずの1156号だが、設置後数十年のうちに風雨に晒されて、不埒な物の破壊行為などによりすっかり朽ちて荒れ、ついには解体ご検討されるようになっていた。

転機が訪れたのは、平成22(2010)年12月。鉄道好きで知られる神奈川新聞の斉藤記者がこの野ざらしに1156号の荒んだ状況を記事にし、「清掃や修理の担い手は行政に限らない」と自らの手で修復に乗り出した。

この動きに呼応するかのように、地元の塗装業者「サカクラ」もこの修復に乗り出し、平成24(2012)年には、神奈川新聞社とサカクラ、そして横浜市の間で覚書が交わされ、ボランティアによる本格的な修復作業がスタートした。

修復工事はサカクラをはじめ、金属加工、木工、建具、電気と各分野のプロが担当、窓ガラスや座席シートはメーカーや鉄道会社が無償で提供し、車体の色などは全盛期の1960年代前半の姿に再現された。

このような経緯を踏まえ、平成24(2012)年4月6日、覚書を交わした日から約5ヶ月後、1156号は復活し「修復記念式典」が開かれた。その後も、1156号はボランティアによる公開が継続している。

改めて、1156号を見ると、路面には御影石の敷石「市電の敷石」が敷かれ、上部には架空線が張られ、電停のプラットホームや行灯までもが丁寧に復元されている。設置されレールの一部は、平成26(2014)年に西区浅山橋から発掘された市電のレールで、「1927」などの刻印が入った部材が発見され、1927年にドイツで製造されたレールであることがわかっているとのことである。

それらひとつひとつが相まって、ここ久良岐公園が開園した頃に失われ、人々の記憶から消えつつあった横浜の都市発展の記憶がここにそっくり留められている。

1156 号が辿った運命は、こうした公共の場で保存されていた歴史遺産が市民の手によって修復され、さらに後世に伝えることができた好例と言える。是非、その復活のプロセスの証をその目で確かめていただきたい。


 

桜川公園(川崎市川崎区・川崎市電700形 702号)



川崎市川崎区にある桜川公園に、かつて川崎市民の大切な足として昭和44(1969)年

の市電廃止まで活躍した路面電車の旧車両700形 702号が保存されている。

川崎市電700形 702号は、大正11(1922)年製で、東京都電で1500形1573号車として運行されていたものを、昭和22(1947)年、川崎市が31万円で買い取り206号として運行に供された車輌である。その後木部の腐食が目立つため、昭和40(1965)年、413万5千円をかけ、日本鉄道自動車で台車や電気系統を除き鋼体化改造を行ない、700形702号となった。この改造で、車体は前後扉から前中扉となり、屋根上に強制換気装置とパンタグラフが設置されている。その後、浜町三丁目 - 池上新田の単線化に伴い、交換時のタブレット交換の便を図るために前中扉から前後扉に改造され、併せて屋根上の強制換気装置の撤去がされてるなど改修を行いながら、川崎市電全線廃止まで使用された。昭和43(1968)年12月の諸元表によると、自重17.6t、定員96人、全長124,000mm、全幅2,455mm、主動力機SS60となっている。登場時の塗装はクリーム色と深緑のツートンカラーであったが、1960年以降に白基調に緑の帯が入った新しい塗装へと変更されている。現地で保存車輌を見ると、概ね最終の運行状態がそのまま残されていると考えられる。方向幕は前後とも川崎駅前となっている。

川崎市営の軌道電車事業は、昭和19(1944)年10月、川崎駅東口の現在の小川町から渡田3丁目の2.76kmが開通し、軍需工場が数多く操業していた川崎臨海部工業地帯への工場従業員の輸送機関として重要な役割を果たしていた。 しかし昭和20(1945)年5月と8月の空襲による壊滅的な影響を受け、戦後の営業再開時に運行可能な車輌はわずか2輌であった。それを補うために昭和20(1945)年12月、東京都交通局から都電1500形を5輌譲り受けた。続いて昭和22(1947)年4月にも都電1500形 3輌を購入しており、このうちの1輌が、後の700形702号である。

その後は、さらに車輌導入しながら、順次路線を延長し昭和27(1952)年1月には、京浜急行塩浜駅(現在の塩浜3丁目)に達し、営業路線6.95kmとなる。これにより東海道本線以東の市街地の北半分を京浜急行、南半分を市電が受け持ち、沿線の人々の足として大いに利用された。

しかし、交通手段の変化と共に順次廃止され、昭和44(1969)年3月31日に最後の川崎駅 - 池上新田間4.64kmの廃止をもって、24年余りの軌道電車事業は終わりを迎えた。

川崎市電700形702号が展示されている桜川公園は昭和25(1950)年10月に開設された都市公園。昭和44(1969)年に児童交通公園となっており、時を同じくして廃止になった川崎市電の車輛が交通公園のシンボルとして設置されたのではないかと考えられるが、当初、設置されたのは設置されたのは702号ではなく701号であった。露天に置かれ、劣化も著しく、間も無く702 号と入れ替えられているようである。この時も同じく露天展示であったために間も無く状態が悪くなったために、昭和53(1978)年に公園内に保存館が設置された。この保存館は雨風が凌げる反面、中が見にくいという欠点があり、平成13(2001)年の公園改修に伴い撤去され、702号は再び露天展示となる。

桜川公園は平成17(2005)年、交通公園としての役割を終え、リニューアルされ、現在では702号もプラットホーム付きの上屋の下に移設されており、良好な保存状態が保たれている。

モータリゼーションによりその役割を終えた路面電車の車輌が、モータリゼーションに伴い必要となった交通公園のシンボルとして設置され、交通公園廃止後もその姿をとどめているのはなんとも皮肉に思えるが、いずれにしても川崎市電唯一の保存車両であり、川崎市臨海部のまちづくりの変遷を今に伝える貴重な歴史資産と言える。


 

箱根口ガレージ[報徳広場](小田原市南町・小田原市内線モハ20系202号)



昭和10(1935)年から昭和31(1956)年まで小田原駅 - 板橋駅の国道1号線を走り「チンチン電車」の愛称で当時の人々に親しまれていた小田原市内線。そこで活躍していたモハ202号が小田原城南側の国道1号沿いの「箱根口ガレージ(報徳広場)」内に設置され保存されている。

この車両(小田原市内線モハ20系202号)は王子電気軌道木造ボギー車 400形409号として大正14(1925)年に東京瓦斯電気工業で製造された。昭和17(1942)年に戦時統制で王子電気軌道が東京市電気局に事業移管されると車番は都電100形 109号に、さらに昭和23(1948)年、戦災で廃車になった車両の番号を詰めて102号に改められる。昭和25(1950)年に廃車となった後は箱根登山鉄道に譲渡され小田原市内線モハ20系202号となる。しかし、小田原市内線が昭和31(1956)年に廃線となっため、箱根板橋車庫で改軌・全長短縮・車体鋼製等の改造を行い201号 - 205号の5両と共に長崎電気軌道に譲渡された。

昭和32年(1957)年、長崎電気軌道150形152号として入線。昭和40(1965)年に熊本市電の台車を譲渡装備し低床化するなど改修されながら、昭和60(1985)年頃まで現役車両として活躍。一時期は事業用とされるも、昭和62(1987)年、151号に番号振り替え、塗装も小田原時代を再現したイエローとスカイブルーの塗り分けされ、イベント用として活躍。平成31(2019)年3月にさよなら運行を行い引退した。

令和2(2020)年 、小田原ゆかりの路面電車保存会の情熱と600名以上の全国の支援者からのクラウドファンディングによって、令和3年(2021)年2月、現在の場所に202号として設営された。小田原と長崎の友好の架け橋となった歴史ある車両はウェディングなどで貸切もできるという。是非、一度訪れて活用のアイデアを考えてみてはいかがだろうか。


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