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[コラム]関東大震災100年 | 02 - 震災復興建造物 - 震災復興公園 - ぼうさいこくたい2023連携企画【THE HERITAGE TIMES YOKOHAMA KANAGAWA】

更新日:2023年8月26日



 
横浜の震災復興公園
 

大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災により多くの建物が倒壊したほか、その後発生した火災により当時の横浜の市街地の90%近くが焼失し、33,543人が被災した。

神奈川県下の多くの都市が自力での復興を余儀なくされたのと異なり、横浜市は「帝都復興計画」に組み込まれ、政府直轄の事業と市が行う事業とを合わせて復興に取り組むことになった。

復興計画では、港湾設備の拡張や幹線道路の整備、計画的な街路の配置に加えて公園の整備も盛り込まれた。復興計画はその後の財政難により大幅に縮小されるが、政府の事業として山下、野毛山、神奈川、日の出川の4公園が復興公園として計画され、日の出川以外の3公園が整備された。ここでは、この震災復興事業で整備された3公園について紹介する。

 
1 山下公園

所 在 地:横浜市中区山下町

整 備 年 代:昭和5(1930)年

構造・規模:(公園種別)風致公園(面積)74,121㎡

設計・施工:内務省復興局

指定・認定:国登録記念物(名勝地)



山下公園は、大正12(1923)年に発生した関東大震災の復興事業の一環として、日本で最初に開設された臨海都市公園である。震災に伴って発生した大量の瓦礫の廃棄場所として横浜市山下町海岸通地先の海面が指定され、内務省復興局の直轄事業の下に公園用地が造成された。大正14(1925)に護岸工事が始まり、山手隧道の掘削土砂などを敷き仕上げられ、さらに30種13,000本以上の樹木や、噴水池、ボートベイシン(船溜まり)などが配置され、昭和5(1930)年に竣工・開園した。

開設当初には、ホテル・ニューグランドに面する公園南側中央部の正門をはじめ、海岸通沿いの計5箇所に入口が設けられた。正門を入ると噴水を中心として左右に花壇が展開し、その両側にパーゴラが設けられた。現在では、正門を含め4箇所の門柱、正門から西側の外柵などが開設当初のまま遺存するのをはじめ、特に正面内の西側の区域においては、当時の地割が良好に残されている。また、横浜港に面する石積護岸の中央及び両端の3箇所には、石積護岸が楕円形に張り出してバルコニーを形成し、曲面を描く石積に沿って水際へと降りる石造の階段が設けられた。そのうち、中央と西側のバルコニー・階段が現存する。

昭和14(1939)年には、震災時に受けた恩恵への返礼として、横浜印度商組合が公園の西端部に「インド水塔」を寄贈した。



また、開設当初には、ボートが直接上陸できるように、園内の中央やや東よりの位置にボート・ベイシン(端艇溜)が築造されていたが、現在では当時の取入口に当たる橋と水門の遺構のみが現存し、その他の部分は昭和29(1954)年から昭和32(1957)年にかけて沈床花壇として再整備された。

開園後、昭和1 0(1935)年の復興記念横浜大博覧会の会場となり、公園前の海でクジラを泳がせたというエピソードも残されている。

第二次世界大戦中は日本海軍が公園地を接収し、戦後は米国進駐軍の住宅用地として利用されたが、昭和29(1954)年の接収解除及び返還を経て、昭和35(1960)年には公園地の全域が市民に開放された。

昭和40(1965)年の山下埠頭臨港鉄道線(国鉄貨物線)の山下臨港鉄道の高架設置では、公園内を高架で通過する計画に対して着工前から大佛次郎ら文化人が景観を損ねると反対し景観論争となったが、計画通り高架でつくられた。

その後、貨物の取扱量の減少から、昭和61(1986)年、臨港鉄道線は営業を中止した。平成元(1989)年「横浜博覧会」にあわせ、公園の東側一帯を「山下公園駐車場」「世界の広場」等として立体的に整備し、「横浜人形の家(1986年開館)」とその間を結ぶ「ポーリン橋」、さらに中村川(堀川)を超えて港の見える丘公園フランス山地区や元町地区と結ぶ「フランス橋」と連続した歩行者動線を創出した。

山下臨港鉄道の高架は、「横浜博覧会臨港線」として平成元(1989)年に開催された「横浜博覧会」の会場輸送等に暫定的に活用されたが、平成12(2000)年には高架構造物を撤去、公園と街(山下公園通り)との景観の一体化を図ることなどを目的に、公園の再整備が実施され、山下公園は、ほぼ現在の姿となった。なお、平成19(2007)年には国の記念物(名勝)として登録されている。

 
2 野毛山公園

所 在 地:横浜市中区老松町

構造・規模:(公園種別)総合公園(面積)90,793㎡

整 備 年 代:大正15(1926)年

設計・施工:内務省復興局



現在の野毛山公園付近一帯は、開港当時、「野毛の御林(おはやし)」と呼ばれ、老松や巨木の生い茂る景勝の地であった。明治になってから野毛の切通し西北部を開いて、明治9(1876)年2月に老松町の地名が設定された。

同年、老松学校隣接地に、野毛坂林光寺付近に住んでいた植木屋、川本友吉が花屋敷「四時皆宜園(しじかいぎえん)」を開園したが、明治16(1883)年に閉園され、その一部を野沢屋の茂木惣兵衛(保平)が買い取り、現在の動物園地区を含めて別荘庭園とした。

また、現在の散策地区は茂木惣兵衛に並び横浜生糸貿易界の双璧と呼ばれた「亀善」の原善三郎が三溪園に移る前に別邸を構えるなど現在の野毛山公園周辺は豪商が別荘を構える保養地あった。

また、明治20(1887)年には、現在の配水池地区にヘンリー・スペンサー・パーマー の指導により横浜水道の浄水場が設置され、市街地への給水が開始された。

しかし、これらの施設や別荘地は大正12(1923)年の関東大震災で甚大な被害を受け、崩壊した。現在では、現地で当時の様子を窺い知ることは困難だが、わずかに動物園内の地割や散策地区入口付近の石垣にその痕跡を見ることができる。

関東大震災後、内務省により震災復興計画の一環として野毛山一帯を震災復興公園とする計画がなされ、横浜市が買収した民有地、復興局が買収した茂木別邸跡地と市水道浄水場、市長公舎を含む市所有地をあわせ公園用地とし、大正14(1925)年に起工、第1期竣工により大正15(1926)年に開園した。

園内は日本庭園風で東京も含め最も早く開園した記念すべき震災復興公園であった。昭和5(1930)年に第2期として洋風園地が開園し完成した。総工費は822,637円57銭。なお、野毛山公園の都市計画決定は大正14(1925)年であり、横浜市内最初の都市計画公園でもある。



その後、太平洋戦争が激化した昭和16(1941)年8月には、野毛山公園も陸軍に接収され、高射砲陣地が構築された。東京・横浜への空襲が本格化した昭和19(1944)年には高射第一師団高射砲117連隊の本部が置かれ、戦後は進駐軍に接収されていたが昭和22(1947)年に解除された。しかし、この間に園内は荒廃することとなる。

昭和24(1949)年には、横浜市主催による日本貿易博覧会場の第一会場となり、野外劇場、観光館、児童館、科学発明館、演芸館野毛山ホール、天文館などが設置された。

日本貿易博覧会の会期終了とともに跡地に遊園地と動物園が整備され、昭和26(1951)年、横浜市野毛山遊園地として開園した。開園初日の入園者数は3万人と伝えられている。

その後、動物園には飼育動物数の増加に合わせた獣舎が建築される一方、遊園地でも開園後もゴムローラースケート場(1951)、児童プール(1952)、メリーゴーランド(1953)、菊小屋(1957)、鉄道パノラマ館(1963)が順次整備され、当時数少ない市民のレクリエーションの場として賑わっていたが、昭和39(1964)年5月、新たな配水池を建設するため遊園地部分(現在の配水池地区)が閉鎖された。これにあわせて動物園は入園無料となった。

建設された地下配水池整備の地上部には、子供の広場(1966)、動物の広場(1968)が整備され、ほぼ現在の野毛山公園の構成となった。



昭和57(1982)年、野毛山動物園の分園として金沢動物園が一時開園、市北西部にも新たに動物園(現よこはま動物園・ズーラシア)を設置する計画が具体化してきたことから、、新動物園への移転の方向が示されたが、市民から8千通を超える存続要望が寄せられ、平成8(1996)年に野毛山動物園の存続が決まった。存続が決定したことを受け、平成11(1999)年から平成14(2002)年の4か年かけて再整備が行われ動物園の一部獣舎を廃止・改修、また、配水池地区にあった「どうぶつ広場」を閉鎖し、動物園内に新ふれあい施設(コンタクトコーナー)「なかよし広場」をオープンした。

平成21(2009)年から配水池地区及び散策地区の再整備が行われ、園路のバリアフリー化や二代目展望台(平成24年度横浜市優良建築設計者表彰受賞

/設計者:松本陽一建築設計事務所)の整備が実施された。


 
3 神奈川公園

所 在 地:横浜市神奈川区栄町

構造・規模:(公園種別)近隣公園(面積)14,190㎡

整 備 年 代:昭和5(1930)年

設計・施工:内務省復興局



震災復興計画において野毛山公園が市の都市公園系統の中核になる「中央公園」として計画されたのに対し、方面別の市街地における中核公園となる「市街公園」(現在の近隣公園のモデル)として計画されたのが神奈川公園である。

近隣の通称高島山からの土で公有水面を埋め立て、さらに買収した私有地を加えて昭和2(1927)年に着工。公園の中央部の噴水池,敷地南西部の子供の遊び場、四阿、便所、水呑台の施設、シイ、ツバキ、サクラ、カエデなどの植栽などほか、公園北側には「神奈川会館」が配されるなど、本格的な施設を備え昭和5(1930)年に開園した。

その後、連合国軍による接収(昭和20(1945))で荒廃したが、接収解除(昭和23(1948)年から順次接収解除・昭和24(1949)年全面返還)に伴う補修・再整備(昭和23(1948)年から昭和28(1953)年)により元の公園機能を取り戻した。

昭和39(1964)年には老朽化した施設(四阿・日陰棚・屋外ステージ)の撤去、さらに

昭和58(1983)年に「神奈川会館」を解体、その代替施設として「幸ヶ谷集会所」が建設され、ほぼ現在の姿となった。



「神奈川会館」は、アールデコ様式風の近代建築で鉄筋コンクリート造・地下1階地上3階一部4階建。館内には約300人を収容するホールや食堂、集会所を備えた公会堂として、

り、横浜市青木町財産区が、区の財産を投じて建設し、神奈川公園より少し早い昭和4(1929)年12月に完成させ、横浜市に維持費も添えて寄付した。その後、公会堂といて活用されていたが、前述のとおり昭和58(1983)年に解体。館内にあったステンドグラス2枚のうちの1枚が、昭和 59(1984)年に神奈川会館の後継施設としてでもある幸ヶ谷集会所へに、もう1枚は神奈川会館の解体から4年後の神奈川図書館に設置されている。


 

この特集については、9/17-18横浜国立大学を会場に開催される「ぼうさいこくたい2023」にポスター出展する予定。(コラムタイトルは仮題)





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