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[コラム]関東大震災100年 | 07 - 震災復興建造物 - 宮崎生花店 - ぼうさいこくたい2023連携企画【THE HERITAGE TIMES YOKOHAMA KANAGAWA

更新日:2023年11月14日



震災、戦災を乗り越え、令和の時代へ。元町1丁目と2丁目の間を山手方面に曲がった先、代官坂のふもとに、白と薄緑色に塗り分けられた外観に、白地に赤く「MIYAZAKI」と書かれた看板をかがげる宮崎生花店。映画「コクリコ坂から」にも登場する明治6(1873)年創業の生花店である。



現在の店舗は関東大震災の翌年に再建された。道路に面して看板を兼ねた店舗、その奥に日本家屋の居住部分があるいわゆる「看板建築」である。店舗は正面の中央に観音開きの扉の出入口、その両側に張り出すように幅広いショウウィンドウがあり、扉とショウウィンドウには大きなガラスが用いられ、一部にはダイヤガラスもあしらわれている。店舗に入ると床はコンクリート土間になっており、さらに地下には生花を貯蔵するためのコンクリート製の地下室もある。関東大震災の翌年にこれほどの建物を個人が再建されたことに驚かせられるが、それ以上に、今もなお「生花店」として受け継がれていることに、代々の店主に対する敬意の思いがつのる。


地下室(画像提供:宮崎生花店)


この度、宮崎生花店は創業150年記念事業として、宮崎生花店にまつわる写真やエピソードを集める企画「まちとともに ひととともに 宮崎生花店 150年の軌跡をたどる」を始めた。

企画にどのような思いが込められているのか、五代目店主の宮崎寛己氏に伺った。 


〈宮崎生花店の歴史〉



宮崎生花店が創業した時期は、明治5(1872)年に新橋 - 横浜間に鉄道が開業し、明治6(1873)年には改暦の布告により我が国でも太陽暦が導入されるなど日本社会の近代化が大きく進んだ時代であった。そのような時代背景にあって開港都市の横浜には、全国から様々な商い・仕事が集まってきており、「切り花」を扱う商売もその一つであった。

当時、植木業が盛んであった蒲田(現在の東京都大田区蒲田付近)から数人が横浜に移って商売を始めており、宮崎生花店の初代店主・宮崎元次良もその一人として生花店を代官坂で創業。花をプレゼントしたり、華やかに飾り立てる文化をもつ外国人居留地に住む外国人相手の商いをしていた。当時は生花市場がなかったため、店舗の近くの温室や畑で育てられた花や、付近の農家から買い取った花で商売をしていたと考えられる。


画像提供:宮崎生花店


その後も商売は順調に営まれ、二代目店主・喜重に引き継がれる。しかし大正12(1923)年9月1日11時58分に発生した関東大震災により店舗は被災。喜重も行方不明となり、当時10代半ばだった息子の清が宮崎生花店の三代目を急遽継ぐこととなる。店舗も被災し、家族や店舗、住居も失った心情は計り知れないが、清は大震災翌年の大正13(1924)年、現在の店舗を再建している。


画像提供:宮崎生花店


大正から昭和に時代が移ると、震災復興が進む一方で、世界恐慌を経て、徐々に軍事体制が強化され、ついに日本は戦争に突入していく。統制により花の作付けが制限(農地作付統制規則・昭和16年10月16日農林省令第86号等)、花材も無くなる中、清も航空隊員として出征。生花店は休業を余儀なくされる。店舗でも生花用の地下室に道路側から入れる入口を設け防空壕に転用している。空襲により横浜の市街地の大部分が消失したが、山手に近い代官坂は戦禍を免れ、店舗も残された。


画像提供:宮崎生花店


戦後、ドイツ語と英語が堪能な清は外国船通訳を勤めつつ、宮崎生花店を再開。外国船や進駐軍施設、ダンスホール「クリフサイド」、山手の学校などに花を届けた。中でも連合国軍最高司令官・ダグラス・マッカーサーが使用していた部屋にも花を届けたと伝えられており、その時に使われた花器が今も店に大切に保管されている。この頃から四代目店主・弘一氏が手伝いを始め、その後店を継ぐこととなる。

平成23(2011)年、高度成長期直前(設定では昭和38(1963)年)の横浜を舞台にした長編アニメ映画「コクリコ坂から」(スタジオジブリ)が公開された。物語の中に当時の横浜が再現され、その一部の背景に宮崎生花店をモデルとした店先で、店主と常連の女性と談笑する様子が描かれた。戦後の混乱期を越えて平和を取り戻しつつも、記憶に残る戦争で失ったものへも思いをもって懸命に生きた人々がそこにはあり、忘れかけていた横浜の一つを思い出せてくれるものであった。



時代の変化とともに「生花」も日本人の暮らしにより身近になった。生花店も様々な形態も多様化していく中で、寛己氏は「このままの経営ではいずれ行き詰まってしまうのではないか」と考え、新しい宮崎生花店を作り出そうと、一念発起し、五代目として継ぐことを決意。平成23(2014)年、地下室の入口を危険防止のために塞ぎ、耐震補強や屋根工事などの躯体工事を実施。さらに住居の玄関を改装してカフェを新設。平成25(2015)年、寛己氏が五代目店主となるのにあわせ、カフェも子育て中のママもゆっくりくつろぎ、お花にふれられる場「HAHA-cafe」([歴飯_06]宮崎生花店 HAHA cafe)てしてオープンした。

ここではコンサート、マルシェ、展示など様々なイベントが催されている。花に囲まれ、深く落ち着き、そして会話も心も弾む場となっており、生花を通じた人々の交流が生まれている。


〈創業150年記念事業〉



近代日本の激動の社会の流れにそって宮崎生花店は生花を業として時代の流れのなかで懸命にお客様へ花を届けつづけてきた150年。関東大震災からの再建は来年で100年。この節目に「まちとともに ひととともに 宮崎生花店 150年の軌跡をたどる」と題して、宮崎生花店の様々なつながりから、横浜、元町を振り返る。寛己氏は、「横浜、元町の歴史をひもとき、この街の価値を新たに深めひろげていきたい」と語る。



インタビュー中、宮崎生花店で所有する写真を何枚か見せていただいた。その一枚、外国人の新郎新婦のウェディングフォト。この写真はこの新郎新婦のご関係の方から宮崎生花店へ届けられたものだとのこと。新婦は宮崎生花店で設えたと思われるウェディングブーケを持っている。ブーケの制作には高い技術が必要だが、ブーケに使う洋花の種類も限られていた時代に、どのようにブーケが作られていたのか知ることのできる貴重な写真でもある。



このように物語や写真はその一枚から様々な背景を想像することができる。

今回の企画を通じて寄せられるエピソードや写真から、それぞれの想いの中の横浜・元町が見えてくるのではないか、それこそ「歴史を生かしたまちづくり」につながる「宝」になるのではないかと期待している。宮崎生花店の写っている写真や店を利用した際のエピソード、結婚式に限らず学校行事やホテルでの記念写真など「この花は宮崎生花店のものなのでは?」といったものまで、是非、心当たりのある方は宮崎生花店のホームページをご確認いただきたい。




この特集については、9/17-18横浜国立大学を会場に開催される「ぼうさいこくたい2023」にポスター出展する予定。(コラムタイトルは仮題)








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