top of page

[開港5都市]景観まちづくり会議2025神戸大会 - 01 開港都市・神戸とは【THE HERITAGE TIMES YOKOHAMA KANAGAWA】

更新日:1 日前


ree

開港5都市景観まちづくり会議


開港5都市景観まちづくり会議は、安政の修好通商条約により日本最初の開港地となった5都市(函館、新潟、横浜、神戸、長崎)の市民団体が集い、景観、歴史、文化、環境などを大切に守り、愛着をもって育て、個性豊かで魅力あるまちづくりを行うため、互いにに交流を深め、情報交換を行い、課題を共有、協議する場として平成5(1993)年、神戸から始まった会議である。

その後、毎年各都市において順(神戸 - 長崎 - 新潟 - 函館 - 横浜)に会議が開催され、その成果はそれぞれの活動に活かされ、市民団体相互の交流も盛んに行われるようになっている。横浜も第1回大会から参加しており、第5回(1997)、第10回(2004)、第15回(2009)、第20回(2014)、第25回(2019)大会、第30回(2024)大会を地元で開催し、各都市の市民団体を迎え、交流を続けてきた。

会議名は「景観まちづくり」となっているが、景観やまちづくりに特化していない多様な市民活動も対象としており、その中でも「歴史を生かしたまちづくり」は、重要なテーマの一つとして、各大会において分科会等で取り上げられてきた。

今年、令和7(2025)年の第31回大会は、開港5都市景観まちづくり会議発祥の地である神戸で開催が予定されている。


ree

今回はしてきたコト、これからするコトを全体の大会テーマとし、令和7(2025)年11月29日(土)~12月25日(月)の日程で、基調講演、活動報告、エクスカーション(分科会)などが実施される予定となっている。主催は「開港5都市景観まちづくり会議2025神戸大会実行委員会」。

[THE HERITAGE TIMES YOKOHAMA KANAGAWA]も歴史を生かしたまちづくりをテーマとした市民webメディア団体として実行委員会に参画し、会議を通じて神戸の歴史を生かしたまちづくり、また各都市の取り組みなどを伝えていきたいと考えている。


開港都市・神戸とは


開港前の神戸

開港神戸之図 慶応4年(1868)頃 神戸市立博物館蔵
開港神戸之図 慶応4年(1868)頃 神戸市立博物館蔵

兵庫港の歴史を振り返ると「大輪田泊」に突き当たる。歴史上の文献で大輪田泊が初見されるのは弘仁3(821)年で、日本後紀に国営による修築工事が行われたことが記載されている。その後、平清盛によって大輪田泊の大規模修築が行われ、日宋貿易の拠点港として栄えた。彼は承安3(1173)年には、「兵庫津」と名付けている。平家の滅亡後は、東大寺の僧・重源により引き続き修築事業がすすめられた。室町時代には足利義満による日明貿易の拠点となり、その後応仁の乱の戦禍をかぶり大きく衰退したものの、江戸時代中期以降、灘の生一本の江戸送りが盛んになり、樽廻船や菱垣廻船によって物資が運ばれ、兵庫津は海上輸送基地としてにぎわった。

兵庫港は、和田岬により明石海峡の急流から守られた湾であり、海域の静穏が確保された「天然の良港」であったといえる。

日米和親条約の締結により開港に成功したアメリカは、次に公使の駐在や自由貿易、開港場の増加等を他国より先駆けて優先利益を得るため、初代駐日総領事としてハリスを任命し、さらなる交渉にあたらせた。この交渉の過程で最大の問題となったのは、開港場・開市場の規定を含む条約第3条の検討であった。ハリスは開港場として江戸・大坂を希望したが、幕府側は拒否し、江戸の代わりに神奈川を、大坂の代わりに堺を代表とした付近の港を開港することを主張した。問題は、大坂の開市と堺を代表とした付近の港の開港であった。天皇がいる京都の近くであり、奈良の御陵にも近い大坂の開市と堺の開港は、孝明天皇が攘夷派であったこともあり、幕府を悩ませた。そのような中、対象に挙がったのが、近隣にある良港として有名であった兵庫港である。結局ハリスは、江戸・大坂は開市場とすることで幕府の主張に同意した。そして、安政5(1858)年に当時の大老井伊直弼と諸外国との間で安政の仮条約が結ばれ、兵庫(神戸)港は文久2年11月12日(1863年1月1日)までに開港する運びとなった。

ただし、実際に開港場となったのは、兵庫ではなく神戸である。それは、かねてより天然の良港といわれた兵庫港には、貿易の拠点ともあって既に背後地に人家が広がっており、公使や貿易商たちの駐在に必要な居留地を建設するための敷地がなかったことや、住民に外国人の出入りの忌避感があったためである。それに対し、旧湊川を挟んで東側にあった神戸には、大きな船も受け入れられる大水深の港が建設できる海岸が広がり、網屋吉兵衛により船舶修理のための舩熮場(ふなたでば)が建設され、背後地は居留地を建設できるだけの広大な畑地・砂浜があったからである。なお、元治元(1864)年にこの舩熮場(ふなたでば)を利用して、勝海舟によって海軍操練所が造られている。

攘夷派は、幕府が朝廷の許可を得ずに条約調印したということに憤激し、また、安政6(1859)年7月規定通りに横浜・箱館・長崎の3港が開港となったことで、水戸浪士たちが大老の井伊直弼を殺害する「桜田門外の変」をはじめ、より過激な行動に及ぶようになった。この結果、幕府にとって条約で定めた開港期日の延期は必至となった。そして、幕府は諸外国側への一層有利な条件での関税税率の改定を代償とし、文久元年にイギリス軍艦に使節を乗船させてヨーロッパへ派遣し、江戸及び大坂の開市とともに兵庫の開港を慶応3年12月7日(1868年1月1日)まで5か年延期させた。


神戸港の開港

開港当日の神戸港=英国測量艦「シルビア」号の艦長(海軍中尉) F.J.パルマーが描いた(出典:神戸市HP)
開港当日の神戸港=英国測量艦「シルビア」号の艦長(海軍中尉) F.J.パルマーが描いた(出典:神戸市HP)

第14代将軍家茂が2度目の長州征伐の最中、21歳の若さで急逝して第15代将軍に慶喜が就き、また慶応2年末には孝明天皇が崩御して、明治天皇が皇位についた。この頃には、薩摩藩と長州藩が同盟を結び、イギリス人グラバーから武器を購入して幕府と対等な戦力を持ち始めた。それに対し慶喜は、フランス公使ロッシュより助言を得て、欧州式の政治・軍事体制を取り入れ、火薬製造や製鉄所の建設、鉄砲・大砲の製造、軍艦の購入など軍事力の強化も図った。慶喜は、朝廷側に兵庫開港の上申書を提出し、ついには参内して強く訴え、兵庫開港の勅許を得た。そして、慶応3年12月7日(1868年1月1日)、開港した。

兵庫開港の勅許後まもなく、大政奉還が決まり、また王政復古の宣言直前という中で、神戸港の開港式は執り行われた。式場外では諸外国の軍艦の礼砲が打ち上げられ、また、付近の村などは、住民たちの祝賀仮装行列や「ええじゃないか踊り」でにぎわったと言われている。

開港後、神戸港は国内外に開かれ、欧米やアジアとの貿易拠点として急速に発展した。明治29(1896)年には日本初の欧州航路が神戸港から開設され、大型客船の寄港や移民船の発着が行われた。特に南米移民では、約40万人が神戸から出航したとされる 。

開港とともに、神戸外国人居留地が港の東約3.5kmの砂地に建設され、整然とした都市設計の下、街区や排水路、道路体系が整備された。明治6(1873)年には土地賃借制が整い、当時「東洋で最も美しく計画された居留地」と称された 。居留地には西洋の商館、銀行、教会、居留者向け住宅などが立ち並び、日本の都市計画にも影響を与えた。

明治32(1899)年、治外法権の撤廃に伴い居留地制度は解消されたが、その街並みや文化的痕跡は現在も旧居留地地区として都市の骨格を構成している 。

国際的港都として発展していく神戸市にとって何よりも重要なことは貿易の伸長に対応した港湾の整備であった。こうして、「将来常ニ幾百隻ノ大小船舶安全ニ港内ニ碇泊」できる「東洋ノ一大良港」を目指して神戸の築港期成運動は高まり、明治39(1906)年に本格的な修築工事が始められた。築港の第1期修築工事では、現在の第1突堤から第4突堤までの基部・突堤の埋め立てに加え、それらに付随する岸壁や防波堤等を整備するこれまでに国内で実例のない規模の工事が進められ、大正11(1922)年に第4突堤上屋で竣工式が行われた。竣工以来、第1次世界大戦による特需や船舶不足等にも刺激され、港勢は工事の進捗を上回るほどであった。さらに、大正8(1919)年からは第2期修築工事も開始され、第1期の外国貿易施設の拡充として第5・6突堤の整備に加え、兵庫第1・2突堤の内貿施設の整備も進められ、昭和14(1939)年にこれらのすべてが完了した。こうして神戸港は東洋一の港湾としての威容を整え、発展していく。


戦後の都市形成

提供:神戸市
提供:神戸市

このように外国人居留地の整備や神戸港の発展を背景に、西洋建築や碁盤目状の街区を特徴とする国際都市として成長していた神戸だったが、昭和20(1945)年3月17日と6月5日の神戸大空襲により、市街地の約7割が焼失し、多くの歴史的建造物や住宅地が失われた。

戦後、神戸市は戦災復興都市計画に基づくまちづくりを開始し、旧市街地の区画整理、幹線道路の拡幅、防火帯の設置、公園の整備といった都市インフラの再構築が進められた。とくに三宮・元町地区では、商業施設の再建とともに、近代的なビル街が形成され、戦前とは異なる新しい都市景観が生まれた。また、旧居留地では、戦災を免れた一部の歴史的建造物が再利用される一方で、多くが建て替えられ、近代的なオフィス街へと変貌を遂げた。

昭和30年代から40年代にかけては、高度経済成長の波に乗り、神戸港は国際貿易港としての地位をさらに確立した。昭和38(1963)年には山陽新幹線の建設計画が具体化し、のちに新神戸駅が開業、山麓と都心の連携が強化された。また、ポートアイランド(昭和56〈1981〉年完成)や六甲アイランド(平成4〈1992〉年街開き)など、大規模な埋立による人工島が造成され、臨海部における住宅、業務、研究、観光の複合都市機能が展開された。これらの事業により、神戸市は南北に長い地形を生かしながら都市機能を拡大し、近代的なインフラと緑豊かな都市環境を備えることとなった。

昭和40年代には阪神高速道路の整備も進み、神戸港と阪神間・大阪都市圏を結ぶ広域交通網が構築された。この時期には市街地の再開発や高層建築の建設も進み、三宮を中心とした都市の高層化・集約化が図られた。一方で、旧市街地や山手の住宅地では、狭隘な道路や老朽住宅の密集が課題として残り、次第に都市の二極化が顕在化していった。


震災からの復興

©️一般財団法人神戸観光局
©️一般財団法人神戸観光局

このように都市として成熟しつつあった神戸市を、平成7(1995)年1月17日に阪神・淡路大震災が襲った。死者6,400人超、建物の全半壊25万棟以上という未曽有の災害は、神戸市の都市機能をほぼ全面的に麻痺させた。とくに長田・兵庫・東灘地区を中心とする木造住宅密集地域では、倒壊と火災により街並みが一変した。また、神戸港や高速道路、新幹線、鉄道などの広域インフラも壊滅的被害を受け、都市としての再建は困難を極めた。

震災後の復興にあたって神戸市は、「創造的復興」を掲げ、単なる元の姿への復旧ではなく、将来を見据えた都市構造の再構築を目指した。長田区など被害の大きかった地区では、防災性の高い街区への再編、区画整理事業の実施、コミュニティ施設の整備が進められた。また、東部新都心構想に基づくHAT神戸(平成10〈1998〉年街開き)の整備や、都市公園の再編、住宅再建支援制度の充実など、ソフト・ハード両面での復興が進められた。一方、住民の合意形成の難しさや、震災による人口流出、高齢化の進行など、都市再生の限界と課題も浮き彫りとなった。

平成以降の神戸市は、震災復興の経験をもとに、持続可能な都市構造への転換を模索してきた。中心市街地では、商業機能や交通機能の集約を目指して三宮再整備「えきまち空間」プロジェクトが進められ、歩行者空間の拡充、駅前広場の再編、高機能ビルの整備などが進行中である。また、ウォーターフロントでは、ポートタワーの改修や新港突堤地区の再開発、アートや観光資源の活用により、神戸らしい景観とにぎわいの創出が試みられている。

一方で、令和に入ってからの神戸市は、全国的な傾向と同様に人口減少・高齢化に直面しており、地域間格差の是正、空き家・空き地対策、居住環境の改善などが新たな課題となっている。これに対し、市は「地域包括ケア」や「都市のスポンジ化」への対応策として、エリアマネジメントやコンパクトシティの推進を進めている。

このように、神戸市の都市形成は、戦災と震災という二度の壊滅的な被害を経験しながらも、そのたびに都市構造を見直し、歴史と創造性を融合させた新たなまちづくりに取り組んできた歩みである。そして現在も、環境共生、防災、文化・景観、多様なライフスタイルを支える都市として、次世代に向けた持続可能な都市ビジョンの具現化を模索し続けている。


神戸市の景観まちづくり

©️一般財団法人神戸観光局
©️一般財団法人神戸観光局

神戸市は昭和53(1978)年10月に「神戸市都市景観条例」を全国に先駆けて制定し、港・山・坂といった自然地形を活かした美しいまちの景観形成を目指した施策を本格化させたのである 。その後、昭和57(1982)年7月に「神戸市都市景観形成基本計画」を策定し、条例に基づき都市景観の方向を体系的に示した。

平成2(1990)年3月には、条例を一部改正し、都市景観形成地域の対象範囲を拡大するとともに、「景観形成重要建築物等」指定制度や、「景観形成市民協定制度」を創設した。この協定制度により地域住民による自主的な景観協定締結が可能となった。

平成16(2004)年には国の「景観法」が制定され、神戸市は同年3月に「神戸市夜間景観形成基本計画」を策定し、夜景や照明デザインにも視点を拡げた。さらに平成18(2006)年1月〜2月にかけて、条例の一部改正を行い、「神戸市景観計画」を策定して景観法と条例を連携させ、市全域を景観計画区域に移行させた 。

市はさらに、景観に関する普及啓発や助成制度を実施する。例えば市民公募により選定された「神戸らしい眺望景観50選・10選」をもとに、平成22(2010)年3月に都心部の眺望保全のための建築物高さ・幅の誘導基準を設定し、同年7月から施行した。また、平成25(2013)年4月には須磨海浜公園からの眺望景観保全の誘導基準を新たに定め、対象地区を拡大していった。


出典:神戸市HP
出典:神戸市HP

令和3(2021)年8月に「神戸市都市景観形成基本計画」を改定し、現代の社会情勢や景観行政の変容を踏まえた内容とした。そして同年12月には神戸市都市景観条例を全面改正し、条例と景観法との整合整理を行うとともに、景観計画区域をさらに拡大し、届出制度を景観法に基づく一本化を図ったのである 。

令和4(2022)年4月1日には、景観法に基づく景観計画区域を神戸市全域に拡大し、従来あった条例と法に基づく二重の届出制度を整理し、届出制度を法に一本化したのである。これにより、大規模建築や屋外広告などについては、全市共通の基準で届出やデザイン協議を受ける枠組みが確立された。

以上のように、神戸市は昭和53(1978)年の都市景観条例から始まり、昭和57(1982)年基本計画、平成2(1990)年の制度創設、平成16(2004)年景観法対応、平成18(2006)年景観計画策定、令和3 - 4(2021–22)年条例全面改正と区域拡大を経て、市民主体の団体認定・協定制度、市民協議による自主ルール、眺望保全の誘導基準など、多様な景観まちづくり施策を展開してきたのである。


住民主体の景観まちづくり

北野天満神社からの風見鶏の館 ©️一般財団法人神戸観光局
北野天満神社からの風見鶏の館 ©️一般財団法人神戸観光局

神戸市における市民主体の景観まちづくりは、昭和56(1981)年に認定された「北野・山本地区をまもり、そだてる会」に始まる。同団体は異人館街を擁する北野・山本地区において、歴史的景観の保存と住環境の向上を目的に設立され、同年9月4日に神戸市都市景観条例に基づく「景観形成市民団体」として第1号の認定を受けた。これを皮切りに、神戸市内の複数地区で地域住民が主導する景観形成の取り組みが制度化され、景観形成市民団体制度として広がっていった。

昭和60(1985)年には旧外国人居留地の保存・活用を目的とした「旧居留地連絡協議会」が、平成3(1991)年には岡本地区の良好なまちなみを保全する「美しい街岡本協議会」と、中華街に位置する「南京町景観形成協議会」がそれぞれ認定された。これらの団体は地域の歴史・文化的背景を踏まえ、建物のデザイン誘導や屋外広告物のルールづくりなどを市民レベルで進めてきた。

平成5年には神戸市が他都市に呼びかけ、この4団体が構成団体である「神戸市景観形成市民団体連絡協議会」の主催により初めての「開港5都市景観まちづくり会議(当初は「開港4都市景観まちづくり会議」)が開催されていることからも、神戸市における住民主体の景観まちづくりの重要性とその後の施策に及ぼした影響の大きさが伺える。


旧居留地(明石町筋) ©️一般財団法人神戸観光局
旧居留地(明石町筋) ©️一般財団法人神戸観光局

さらに平成8(1996)年には「トアロード地区まちづくり協議会」、平成10(1998)年には「魚崎郷まちなみ委員会」、平成13(2001)年には「有馬まちなみ景観委員会」などが発足し、再開発が進む都心部や歴史的温泉地でも市民による景観形成の担い手が登場している。

これらの団体による活動を支える仕組みとして、神戸市は平成9(1997)年に「景観形成市民協定制度」を導入した。市民自らが景観形成に関するルールを定めて協定を結び、神戸市から認定を受けることで、法的な裏付けを持って地域景観の保全・形成に取り組むことができる。最初の協定として平成9(1997)年にトアロード地区で締結された「景観形成市民協定」は、平成10(1998)年に市の認定を受けた。続いて、同年には新長田駅北地区東部、栄町通、魚崎郷の各地区でも協定が成立し、地域特性に応じた景観ルールが住民の合意に基づいて定められた。

平成12(2000)年以降には、三宮中央通りや神戸元町商店街、有馬温泉街、ハーバーロード地区などでも景観形成市民協定が締結されている。たとえば、三宮中央通り景観形成市民協定は、神戸の中心商業地にふさわしい都市的景観を維持するため、建物の高さ・デザイン・広告物表示方法などについて詳細なルールを定めている。また、栄町通協定では、震災復興の過程で生まれた地域の景観に対する意識を背景に、「栄町通らしさ」を共有するまちづくりが市民の手によって推進された。こうした協定では、事前相談制度やデザインガイドラインの作成なども行われ、住民が自発的にまちの価値を守る仕組みが機能している。

このように神戸市の市民主体による景観まちづくりは、昭和・平成・令和を通じて、条例に基づく制度的な枠組みと、地域に根ざした自主的な活動の両輪によって進められてきた。地域の特性と歴史を尊重しつつ、住民の手で美しいまちなみを創出する取り組みは、全国的にも先進的な事例として注目されているのである。


神戸市の歴史を生かしたまちづくり

神戸市は、その開港以来の歴史的経緯や多文化的背景を踏まえ、歴史的建造物や文化財の保全活用、そして歴史を生かしたまちづくりにおいて先駆的な取り組みを積み重ねてきた都市である。

昭和56(1981)年、「神戸市都市景観条例」に基づき「北野・山本地区をまもり、そだてる会」が第1号の景観形成市民団体に認定されたことは前述のとおりであるが、このことが神戸市における近代建築や歴史的町並みの保存が本格的なスタートと言える。

平成7(1995)年の阪神・淡路大震災では、旧居留地に居留地時代から唯一残されていた

国指定重要文化財「旧神戸居留地十五番館」が強い地震動、液状化、耐震性不足を原因として倒壊、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている北野地区の伝統的建造物34件のすべてが何らかの損傷を受けるなど甚大な被害がみられた。また、多くの酒蔵が倒壊し、収蔵されていた酒造道具を含めて大きな被害を受けた。建造物には未指定文化財が多く、撤去や建て替えが進んでしまった。さらに早期の復興を目指すために、公費解体の期間が定められ、瓦礫撤去推進とともに歴史資料の滅失も加速した。

これらの事態を踏まえ、神戸市では平成9(1997)年「神戸市文化財の保護及び文化財を取り巻く文化環境の保全に関する条例」を制定した。条例制定により、指定等文化財の補助制度をはじめ、全分野に及ぶ登録制度、神戸らしさを伝えている名所・旧跡・祭りなどを地域文化財とする認定制度、周辺環境を含めて面的に文化財を保護する文化環境保存区域の指定など震災の経験を踏まえた保護施策の充実が図られた。

文化庁では、文化財保護法を改正し、新たに文化財登録制度を創設した。歴史的な建造物、古文書、仏像、古写真などの救出や修復が、様々な団体により行われた。これを契機に「文化財レスキュー」が生まれ、神戸大学を中心とする「歴史資料ネットワーク」の活動と兵庫県がはじめた「ヘリテージマネージャー」の養成は、現在全国各地に広がっている。

このように阪神・淡路大震災という災禍を契機として、歴史的資産の再評価が行われ、復興していく中でも歴史的建造物の保全や活用が進められた。

旧居留地十五番館も元の建材で明治時代の建築技術及び最新の免震技術を導入した復元工事が行われ、平成10(1998)年に完成した。

平成23(2011)年には、旧ハンター住宅を含む相楽園の近代和洋折衷建築群が注目され、庭園とともに保存・活用の方針が議論された。市はその後、建築物単体だけでなく、周辺環境や風致景観との調和を考慮した包括的な保存政策に転換していく様子が伺える。


以上のように、神戸市の歴史的建造物の保全活用と歴史を生かしたまちづくりは、条例制定、市民主体の協定制度、景観計画、国制度との連動を通じて、持続可能で質の高い都市環境の形成を志向してきた。開港以来の都市としての成熟と、多文化的遺産を包摂する歴史的土壌が、これらの政策の根底に流れているのである。



<関連記事>
  • [開港5都市]景観まちづくり会議2025神戸大会 - 01 開港都市・神戸とは【THE HERITAGE TIMES YOKOHAMA KANAGAWA】

  • [開港5都市]景観まちづくり会議2025神戸大会 - 02 全体会議I【THE HERITAGE TIMES YOKOHAMA KANAGAWA】

  • [開港5都市]景観まちづくり会議2025神戸大会 - 03 FG企画I「してきたこと」【THE HERITAGE TIMES YOKOHAMA KANAGAWA】

  • [開港5都市]景観まちづくり会議2025神戸大会 - 04 ウェルカムパーティー【THE HERITAGE TIMES YOKOHAMA KANAGAWA】

  • [開港5都市]景観まちづくり会議2025神戸大会 - 05 分科会1「景観ルールが具現化された街並みを見て歩いて、考える」【THE HERITAGE TIMES YOKOHAMA KANAGAWA】

  • [開港5都市]景観まちづくり会議2025神戸大会 - 06 分科会2「宗教と景観

    〜多文化共生のまち神戸を歩く〜」【THE HERITAGE TIMES YOKOHAMA KANAGAWA】

  • [開港5都市]景観まちづくり会議2025神戸大会 - 07 分科会3「『“あの日”を歩き、“あす”を描く』一記憶と景観で考える防災まちづくりー」【THE HERITAGE TIMES YOKOHAMA KANAGAWA】

  • [開港5都市]景観まちづくり会議2025神戸大会 - 08 分科会4「『水と酒と癒しの旅路』癒しと文化を結ぶルート 魚崎郷~有馬温泉」【THE HERITAGE TIMES YOKOHAMA KANAGAWA】

  • [開港5都市]景観まちづくり会議2025神戸大会 - 09 分科会5「まちとみち」【THE HERITAGE TIMES YOKOHAMA KANAGAWA】

  • [開港5都市]景観まちづくり会議2025神戸大会 - 10 FG企画Ⅱ「これからすること」【THE HERITAGE TIMES YOKOHAMA KANAGAWA】

  • [開港5都市]景観まちづくり会議2025神戸大会 - 11 全体会議Ⅱ【THE HERITAGE TIMES YOKOHAMA KANAGAWA】



THE HERITAGE TIMES

YOKOHAMA KANAGAWA

横浜・神奈川を中心とした歴史的建造物や歴史的町並み保存に関するニュースを紹介するウェブメディアです。

​掲載を希望する記事等がございましたら情報をお寄せください。

© 2019 - 2025 THE HERITAGE TIMES YOKOHAMA KANAGAWA 

bottom of page